すらりとした長い指先が紡ぎ出す。

(ポンポロポロロン。)

まるで夢の中でステップを踏むように。甘く、優しく、軽やかに。それは光り輝く魔法のかかったメロディー。

(ポンポロポロロン。)




◇ ◇ ◇




――音が聴こえる。少年はふと立ち止まる。そして耳を澄ます。奥の方からかすかに届いてくるそれは、よく耳に馴染んだ弦の音色だった。けれど、旋律には聴き覚えがない。
一体奏でているのは誰なのだろう。ふと疑問が湧いた。この建物には一つしかないピアノの練習場から音楽が流れてきているのは明らかで、少年はもともと目的地だったその場所へと足を進めた。

近づく度に、音色はだんだんとはっきり聴こえてくる。有名なクラシック曲などではない。まだ一度も耳にしたことのないそのメロディーは、不思議と胸に染みる、果てしない空の情景を思い起こさせた。(どこまでも続く雲の平原を、ひとりぼっちでゆっくりと歩いていく、でも哀しくはなく、ただ澄み渡る空の青さに全てを癒されるような、そんな風景だった。)
こんな音を生み出している人物に、少年は俄然興味を引かれた。辿りついたドアの前でガラス窓から中を覗くと、ピアノを弾いている小柄な背中が見える。肩にこぼれかかる黒い髪。(あれは、どこの女の子?)
演奏する彼女に気づかれないように、静かに静かにドアを開けた。優しい音色が真っ直ぐに飛び込んでくる。吸い込まれそうなほど透明で純粋な音の響き。少年は、未だこちらに背を向けて、そのほっそりとした指をなめらかに走らせる少女の後ろ姿をじっと見つめた。少女の指が鍵盤に触れる度に、小さな温かさが生まれる。
曲は終盤に差し掛かり、淡々と、しかし確かに余韻が残るメロディーを彼女は奏でていく。デクレッシェンドをし、そして最後にシのシャープの音をポン、と小さく刻んで締めくくった。

空間に残響が消えるまでじっくりと音の響きを味わってから、リーマスは惜しみない拍手を彼女に贈った。

「すごく綺麗だ。思わず聞き惚れちゃったよ」
「えっ!?」

ぱっと振り返り、にこやかに手を叩いている少年の姿を見て、少女は目を丸くしたまま口をぱくぱくとした。 「え、な、え…!」 見る見るうちに顔が真っ赤に染まっていく。声もうまく発せられないほど驚いたらしい。
リーマスはふわりと微笑んで、一歩少女に近づいた。

「初めて聴いたな。良い曲だね。誰の作曲なんだい?」
「あ、あの…えっと、」

譜面台に載せてある楽譜をひょっこりと覗き込む。すると何故か少女は慌ててそれを取り上げて、胸に抱え込んでしまった。しかしリーマスは隠される前にちゃんと見ていたのだ。五線譜の上に踊る音符たちが、明らかに手書きで書かれていたのを。
「もしかして…」 リーマスは驚きの目で少女を見つめる。 「今のは、君が?」
少女はもう耳まで赤くさせながら、ようやくして「は、はい…」とか細い声を出した。

「驚いたな…」

リーマスは小さく呟く。それから「ね、ちょっとその楽譜見せて欲しいんだけど、いいかな」と首を横に傾げた。一瞬躊躇うような間を置いてから、少女はおずおずと楽譜を差し出した。「あの、本当に、趣味程度のものなんですけど…」
恥ずかしさのあまり小さく俯いてしまった少女を横目に、ざっと譜面に目を通す。それだけで旋律の美しさが伝わってくる。ああ弾いてみたいな、とリーマスは何気なく思った。(妙にわくわくする。こんなに快い胸の高鳴りは、いつ以来だろうか。)
そして隅に小さく書かれたサインが、不意に目に留まる。――『』。控えめに添えられたその名前を、リーマスは瞬間的に記憶にインプットした。

「どうもありがとう」 楽譜を返しながらリーマスは言った。 「君の曲、本当に素晴らしかったよ。僕もピアニストで、今オーケストラに入ってるんだけど、」

「あ、し、知ってます!」

突然興奮気味にがばりと顔を上げたという名の少女を、リーマスはぽかんと瞬きながら見つめた。は頬を染めて、はにかみながらもう一度言う。

「…知っています。リーマス・ルーピンさんですよね?」

「あ、うん。そう、なんだけど…」 の口から自分の名前が出てきたことに心底驚きつつ、リーマスは頷いた。そして思わず「どうして僕の名前を?」と率直な疑問をなげかける。すると、少女から意外な言葉が返ってきた。

「ルーピンさんの演奏、私、大好きなので」

実は、いっつもコンサート行ってるんですよ。とは照れくさそうに小さく微笑んだ。
(その笑顔、声、指先を、とり憑かれたようにじっと見つめ続けて。)数秒後リーマスは、じわじわと自分の頬が熱くなってくるのを感じていた。


(それからというもの、コンサートの度にいつも客席にあの少女の姿を探してしまう自分に気づき、「ああ、どうやら一目惚れしてしまったらしい」と少年が悟ったのは、また別のお話。)



ゆ び の き れ い な ひ と




「ルーピンさんは、とても指がきれいですよね」
「え?そうかなぁ、」
「そうです。私ずっと思ってたんです、ルーピンさんの指は、まるで魔法みたいだなって」


それは、きみもだよ。






(素敵な秋オケ企画さまに感謝を込めて! 2007.12.7. あさぎ)