白い余白に黒い五線、踊る音符は何音符?




( あなたの音譜のわたしの音符 )





 綺羅々々した三拍子の余韻の残るホールの片隅で、わたしは譜面台を畳んでいた。オーケストラ団員の雑談や個人練習の間の抜けた音がホールに響いている。セブルスはまだ楽譜にかじりついてひとり練習していたし、ピーターはコントラバスに押しつぶされそうになりながら、のろのろとわたしの前を横切って行った。隣で片付けをしていたリリーはてきぱきと仕度を終えると、ジェームズと一緒にホールを出て行く。わたしは楽譜を鞄に仕舞いながら、その後姿を見つめ、二人の繋がれた手に視線を落とし、思わずため息をついてしまった。いいなあ・・。
「・・?」
 ため息と一緒に声に出てしまったらしい。わたしの横を丁度通り過ぎようとしたリーマスが、わたしと、それからリリーとジェームズの後姿を交互に見つめて、困惑気味にわたしを見下ろした。そのリーマスの表情の意味に気づいたわたしは、苦笑いを零し、手をひらひらと振って否定した。
「ああ、違う。違うよリーマス。あんな指揮者に付き合えるのはリリーだけだよ」
「・・まあ、そうだね、リリーだけだね」
「そうだよ」
「今日もジェームズ、絶好調だったなあ。この間のコンクールの審査員コメント、"指揮者踊りすぎ"に全く堪えてないよね」
「そうだねえ、もうあれは一種の才能だよ。わたしは楽しくて好きだけど」
 はじめは癖のある指揮で慣れなかったけれど、今ではジェームズの指揮じゃなきゃ何だか乗れないほどクセになっている。ジェームズの独特な指揮を思い出してわたしが口元を歪めると、リーマスは顔を緩めた。
「なんだ。僕はまた昼ドラのごとき相関図が出来上がるのかと」
「そんなわけないじゃない・・・てか、今何でちょっと残念そうな顔した?」
 一瞬つまらなさそうにした顔に向かってそう言うと、リーマスはおよそ学生らしからぬことを言うので、わたしは思わず聞き返してしまった。
「いやあ、最近嵌っちゃって。・・・ほら、試験期間は午前授業だったでしょ?家に帰ってテレビをつけると丁度やってたんだよ。なかなか面白いんだよこれが。瑞枝さんと雅俊さん、二人の今後の展開に目が離せない」
「・・そう」
「今は学校で観れないから録画してるよ。今日はクライマックスなんだ、早く家に帰らなきゃ」
「ふうん」
 わたしはリーマスの話を適当に流しながら、ボーイングの確認をしているヴァイオリン軍団の中に居る黒髪を見やった。何か気に入らないところがあるのかしら、シリウスはヴァイオリンを片手に、眉を寄せている。
「ジェームズのように、感情をストレートに表してくれたらいいのに」
「・・・、シリウスと何かあったの?」
 瑞枝さんと雅俊さんの話を止めると、リーマスはわたしの顔を覗き込んだ。ジェームズとリリー同様、オーケストラ内の恋愛模様は団員に筒抜けなのがいけない。
「うーん、別に、何かあったわけじゃないけど」
「けど?」
「わたしばっかり好きな気がする」
「・・・なんだ、のろけか」
 リーマスはやれやれと肩をすくめて、歩いていってしまいそうになる。わたしは服の裾をつまんで、引き止めた。
「ひどい、リーマス。わたし結構真剣に悩んでいるのに」
 例えば、わたしは毎日寝ても覚めてもシリウスのことばかり考えていて、わたしの半分以上、もしかしたら寸分の隙間なくシリウスが占めてしまっているのかもしれないけれど、シリウスは、シリウスの中のわたしが占める割合は、いったいどれくらいなのかな?楽譜でいうと、一小節における二分音符?四分音符?八分音符?もしかして、休符?シリウスにとってはわたしは何てことない存在?それとも、わたしと同じように、シリウスの頭の中は、わたしでいっぱい?全音符?どうなのかな?なんてことを、思っていたら、合奏中ソロを吹き忘れました。
「何に悩んでるって?」
 リーマスが口を開こうとしたら、シリウスがわたしの隣に音を立ててケースを置いたので、二人で驚いて後ろを振り返った。恐らく先ほどのヴァイオリン会議で何かあったのだろう。少し乱暴な楽器の仕舞い方に、ご機嫌斜めなのだと理解したリーマスは、「じゃあね、花」と一言、そそくさと去って行ってしまった。シリウスは暫くむっつりとしていたけれど、次第に落ち着いてきたようで、急に口を開いた。
「あんなに練習してたのに、どうして合奏だと吹けないんだよ」
 シリウスは、わたしが先ほどの合奏練習でしてしまった失態について悩んでいるのだと思ったらしい。わたしは一瞬きょとんとシリウスを見上げてしまったけれど、情けなく笑った。
「いやあ、ぼうっとしてたら忘れちゃって」
「お前、ソロ吹き忘れるとか、普通ないだろ」
 シリウスは弓の手入れをしながら、ため息混じりに言った。わたしは隣で楽器を解体させながら、シリウスが高そうなヴァイオリンをケースに仕舞うのを眺めていた。シリウスほど、この上品なツヤツヤした木目の物体が似合う男もいないんじゃないかなあ。
「ごめんなさいコンマスさん」
 確かに、あれは、落ち込むべきだ。それなのに全く違うところでぐだぐだと悩んでいたのが申し訳なくなって、謝ると、シリウスは呆れたようにわたしを見下ろした。
「・・・俺じゃなくて。まあ、全体に迷惑がかかるってのもあるけど、たださ、お前ちゃんと練習してるんだもん、もったいないだろ。個人練習の時は、吹けてたじゃん」
「でも、いざソロが近づいてくると、指がガチガチになって唇が乾いちゃうの。それに手汗が」
「手汗って・・・な、もっと自信を持てよ。お前の音、俺好きだよ」
「・・うん」
 わたしはちょっと照れくさくなって、それからわたしが全然気にしていないことをシリウスが励ましてくれるのが少し可笑しくて、微笑んだ。シリウスは完璧主義でたまに怖いけど、なんだかんだいって優しいから好きだ。わたし自身に言ったわけではないけれど、好き、だなんて、嬉しいじゃない、ばか。もたもたとしていると、シリウスはもう片づけを終えてしまったので、わたしは急いで楽器をケースにしまった。
「ほら、帰るぞ」
「うん」

 冷たい風に木の葉が舞っていた。わたしとシリウスは手袋のしていない手をポケットに突っ込んで、譜面台と楽器を背負って、他愛もない話をしながら並木道を歩いた。冷たくて湿った土は、一足先に冬の匂いがした。

「もうすぐクリスマスだなあ」
 シリウスが灰色の空に向かって、ぼやくように言った。わたしは今日が何日だったのかを思い出して、クリスマスまでの日数を数えた。
「そうだねえ、もうあと一ヶ月だよ」
「・・・はさあ、」
「ん?」
「・・や、なんでもない」
「なに、シリウス?」
「・・あー、クリスマスソングでは何がすき?」
「えー、難しいなあ。もろびとこぞりても好きだし、なんだっけ、I wish your merry X'mas♪ってやつ。でもやっぱり、くるみ割り人形かなあ。今やってるし」
「そっか」
「うん」
「シリウスは?」
「クリスマスだろ?・・これといってない」
「なんだあ、自分から聞いたくせに。じゃあ、くるみわり人形の中では、何が好き?」
「トレパークとか?」
「嫌だ、あれ早いもん。指がおっつかないよ」
「じゃあは何が好きなんだよ」
「わたしはねえ、うーん、花のワルツかな」
「ふうん。・・・、・・はさあ、クリスマスに何か欲しいものとか」
「え?」
「・・や、なんでもない」
 シリウスはごにょごにょと語尾が消えるように言ったので、何て言ったのかわからなかったけれど、顔を見上げてみたら、鼻が赤かった。赤いのは鼻だけじゃなかったので、寒さのせいだけじゃないのかもしれない。けれど、シリウスはそわそわ落ち着かない様子だったので、黙っておくことにした。
「、?」
「え?」
「また聞いてない」
「ごめん、ぼうっとしてた」
「まったく」
 シリウスは先ほどと同じように、ため息混じりに言った。人と話している時もだけれど、わたしは合奏中、指揮者が他の楽器を合わせている間とか、よく違うことを考えてしまう。思うに、わたしの妄想癖はここで培われたに違いない。ネチネチと他楽器が苛められている間、どうしてもわたしはトリップしてしまうのだ。指揮者のタクトがこちらを向いた瞬間、いつも後悔するのだけれど、わたしの脳みそはわたしの言う事を素直に聞いてくれない。ほかっておくとすぐに、視線を指揮者からすぐ横に居るシリウスの横顔に落とし、 シリウスのことを考える。こんなこと言ったらコンマスさんは怒ってしまうかもしれないけれど、シリウスは喜んでくれるのかな。
「あのね」
 わたしは少し歩幅を大きく揺らしながら、シリウスの顔をのぞきこんだ。シリウスは、どうだろう。あなたの中のわたしの音符は、どれくらい?
「真っ赤なお鼻のトナカイさん」
「は?」
「シリウス鼻赤い」
「寒いんだよ」
「うん」
 特に面白いわけでもないのに、シリウスの染まった鼻を見ていたらクスクス笑いの発作がおきてしまった。鼻が高いのも困ったものだ。わたしの可哀想な鼻は東洋人の平均よりもさらに低いため、そんなことになる心配はない。
「笑うなよ、ばか」
「うん」
「笑うなって言ってるだろ」
「うん」
「だから」
「うん」
「・・・
 シリウスは急に立ち止まると、横からわたしの唇にキスした。あんまりわたしが笑うものだから、黙らせようと思ったのかもしれない。ゆっくり離れてゆくシリウスの顔を見上げながら、わたしは、ずるいなあと思った。ずるいぞ。そんなことされたら、さっきよりもっと好きになっちゃうじゃん、ばか。
「・・・え、えへへ」
「今なんで笑った?」
「なんでもないよ」
 シリウスは少し拗ねたように、わたしを見下ろした。もう一度、照れ隠しに笑うと、わたしは次第に寒くなってゆく季節を愛おしく思った。もっと寒くなればいいなあ。あったかいのが際立つから。
「なあ
「ん?」
 見上げたら、シリウスは、お菓子を待っている子どものような顔をしていた。こういう、小さな欲の宿っているシリウスの顔がわたしは好きだ。ずるいなあ、ずるいなあ。ばかばか、とわたしは心の中で呟く。ねえわたしの頭の中はあなたでいっぱいだよ。これ、どうしてくれるの?あなたの頭の中も同じだけわたしで埋め尽くさなきゃ、気がすまないよ。
「・・もういっかいしていい?」
 けれど、本当は、そんなことどうでもいいのかもしれない。今となりに居る彼は、どれだけわたしに夢中なの? なんて、そんなわたしの不確かな胸のうちなど露知らず、シリウスはとても確かなことを言うので、わたしは自分の考えていることが可笑しくなってきて、やっぱり笑ってしまった。
「うん」

 だから、今度はわたしから、ツマサキぎりぎりまで、うんと背伸びして。

 











(20071124 秋オケ企画さんへ 蝶々結び/花緒)