スランプだ!
 嘆いたジェームズがタクトを置いた。





 コンサート会場でもあるホールへ続く、細くて、長い、絨毯の敷かれた廊下。
 そこは歩くと深みのあるコツコツとした音が響いて、ジェームズの重い足でも、そこを何度も往復したい気分になる。

 正直それどころではないのだが、ジェームズはかかとが鳴らすリズムを気に入ったようだ。何度も、何度も、時折調子を変えながら、ステップに似た歩調で廊下を行き来した。



 中断されてしまったリハーサル。
 コンサート会場に残されたメンバーの、内ひとり、気の弱いピーターが「…大丈夫なのかなあ」とはっきりしない声でつぶやく。

「あんな頼りない奴に指揮を任せるからいけなかったんだ」

 フン、と不遜に鼻で笑ったのはセブルスだった。
 フルートを膝の上にのせていたリリーは楽器を手に取り立ちあがる。

「あなたにだって、調子が悪いときがあったじゃないの!」

 今そういうことを言うのは、不謹慎だわ。
 彼女の言い分はもっともだが、セブルスの表情は変わらず、心配性のピーターはやはり不安げであり、シリウスでさえもノーコメントを決め込んでいた。

 きっと難しいところなのだろう。
 この状況をどうにかできるのはジェームズだけであったが、しかしスランプに陥られるには、数時間後にコンサートを控えたこの状況はタイミングが悪すぎたし、誰が何を言っても彼に与えられるのは焦燥感ばかりだ。

 ジェームズをかばったリリーでさえ、先ほどから時計を気にしていた。



 は席を立った。「どこへ行くの?」と尋ねかけて、何もできないピアノ奏者は口を閉じる。
 役立たずはこれ以上、場の空気を動揺させてはいけないと思ったのだ。
 舞台袖の階段を下りる前、は舞台袖のピアノに一瞬手を添えた。

 彼女が出て行ったのは、ジェームズのいる廊下だった。

 張りつめた舞台の中で、恐らくシリウス以外の全員が彼女の姿を目で追った。
 が出入り口をくぐった後、すぐ彼女の声がうっすら聞こえた。シリウスは目を瞑ってしまっているが、もしかすると耳はそばだたせているのだろうか。



「…………い?」
「…あぁ」


 ――寒くない?
 ――…ああ。



 ホールにいる、何人がこの会話を聞き取れているだろうか。
 セブルスはぴくりとも反応を示さなかったので、まったく聞こえてなかったのかもしれないが、リリーやピーターはしきりに扉の外を気にしていた。けれど――おそらく、聞こえていない。

 二人の声は、一番舞台袖のピアノの位置で、ぎりぎり聞こえるようなものだった。
 とジェームズは少し、他愛のない会話を繰り返す。



「折角なら楽屋のほうが、もっとあったかいのに」
「いいよ。みんな僕のせいで待ってるんだ。頭を冷やせてちょうど良い」
「冷やせてって、体まで冷えたら意味ないよ」
「そういうこそ、廊下は寒いんだから」


 ――体、冷やすよ?


 にこりと、音のしそうな…少し茶目っけを含んだ疑問符。
 彼を追ったの心中を、ジェームズはどうやら察してしまっているようだ。

 ホールの上部で、照明のテストがカチカチと切り替わる。
 舞台の明かりは廊下へこぼれているだろうが、廊下の明かりが舞台へ届くことはなかった。

 届くは――かすかな、二人の声と靴音のみ。
 そしてそれも、シリウスが目を瞑る舞台の中央付近までは届かない。



「今まで何度練習してきたかなあ」

 ジェームズが声色を落とす。
 の返事がなくても、ジェームズはすぐに言葉をつなぐ。

「君との約束のために、必ず成功させるって頑張ってきたもんね。今になって、スランプだなんて……自分でも驚きだよ」
「…………」



 約束。
 他の団員が知らぬ間に、どうやらジェームズと彼女の間で密約が交わされていたらしい。

 照明は指揮者のいないステージを照らし、壇上のピアノにライトを反射させた。



「うん。練習、あんなに何回も、したよ」

 の細い声が、絞り出すように掠れている。
 証明はリリーを照らし、彼女のフルートがキラキラと光沢を帯びた。シリウスのヴァイオリンは、弦がその一本一本の存在を銀色に主張している。

「…たし、は」

 スランプだと指揮棒をなげうってしまった頑固者のジェームズに、はよく、ああもはっきりとものを言える。
 それだけ二人の間に絆というものが繋がっているのだろうかと、彼女の次の発言に耳を集中させながら、業を煮やし、楽譜を見つめてそんな心配をするのは、この壇上で二人の会話を聞くことのできる、ただひとりきりだった。


「ジェームズと約束したから、苦手なところも全部演奏できるようにした。最初は…無理だって、思ったけど」

 ――舞台の袖で、楽譜の束に皺のできる音が、ごくわずかにセブルスの音程確認の邪魔をした。



「そうだ」

 ジェームズは静かに、体の底から響かせるように優しく言った。

「最初に言い出したのは僕だ。コンサートが成功したら、君もきっとうまくいくから――僕が成功させて、君に魔法をかけるから…って約束した」



 その瞬間、指揮棒を魔法杖のように振るジェームズがそこにいた気がした。
 クシャ…と楽譜が音を立てる。先ほどとは違い、無意識だ。

「君がリーマスとうまくいくよう、とびきりの魔法をかけなくちゃ!」 「ジェーーームズ! その言い方は、恥ずかしい」

 の慌てた声が、僕の楽譜に皺を増やす。
 ジェームズは持ち直したのか、戻ろう! と言って、ホールの入口の扉に向かう。足音がコツコツとこちらへ近づく。

 いつの間にか廊下側に向いていた首をすぐに戻し、僕は楽譜の皺を丹念に伸ばそうと心掛けた。





 ねえジェームズ。ねえ、
 どうやら僕は指揮者のスランプに何をすることもできなければ、人より耳が少しばかり良いせいか、大変なことまで知ってしまったみたいだ。

 集中しなくちゃいけないのに、鍵盤から弾かれる音がさらに僕の鼓動を跳ね上げる。
 本番寸前、予想外のライトまでが僕を煽った。









ラッキー7の爆弾をしょって
(11/30 秋オケ企画様へ 屑)
2style.net