音楽用語はわからない。記号だってト音記号とヘ音記号くらいしかわからないし、アンダンテの意味も判らない(アンダンテとアルデンテってどっちが音楽のやつだっけ、ってレベルだ)けれど、一つだけ判ることは、次の公演はアタリってことだ。
わたしは楽器は扱えないけれど、演奏を耳にするのはとても好き。物語のようにわくわくする楽曲もあれば、胸の奥からじわじわこみ上げてくるような旋律もある。ただ、貧乏学生には少し公演なんて敷居が高いのも確かであって、本格的なものなんてお父さんに何度か強請って連れて行ってもらったくらいしかない。そこでわたしは考えた。小遣いから公演代を捻出するのは不可能である。けれど、こういうホールっていうのはスタッフが意外といない。公演のお手伝いをすれば無料で見ることが出来るのだ。わたしがそんなオイシイ話に食いつかないわけは無く。今はこうして案内のチラシを封筒につめているところだ。
窓の隙間から乾いた風が髪を浮かせる。首筋に少し鳥肌が立つ。わたしは窓を閉めようと立ち上がる。閉めると、今まで以上にシンと静かになった。ヒマだ。実際まだ糊付けも終わっていないけど、少し休憩しよう。
このホールは大きいので、色々な団体が利用する。ワークショップもあれば、ビジュアルバンドだってライブする。演歌歌手もやって来れば、有名な大教授の公演会だってある。その為、大体は各公演会に一つの多目的ホールの様なものを使わせてもらえる。各個人で練習も出来るよう、個室がいくつかある。防音機能があるから、そうそう練習は聞こえてこないけど、耳を済ませるとかすかに聞こえてくる音楽が、飽き性のわたしでもこのボランティアを続けていられる理由だった。もう一つ、理由はあるけど。
ノックの後、ギイとドアが開いて、わたしは顔をあげる。あ、いらっしゃった。
「おはようございます」
ぴょんぴょん跳ねている髪の毛を揺らしながらにっこりと眼鏡の彼は微笑んだ。廊下にはブラックさんや、赤毛の女の子といった見慣れたメンツだ。わたしは慌てて
「お、おはようございます!」
わたしが慌てて会釈すると、彼らは少し笑った。変だっただろうか。ちらりとブラックさんを見ると、彼も少し笑っていて、何だか嬉しかった。
公演まであと一ヶ月。わたしは彼らの合奏を1度しか聞いた事が無いけど、今までのコンサートでこれはアタリだ、とすぐに確信した。別により分けるつもりはないし、どんな音楽も好きだけど(つまり、ハズレって思う程知識が深くないのだ)わたしはこの音楽が好きだ、とすぐに思えた。舞台設置の為の照明のやり方を見せてあげる、とスタッフの人(この人は舞台スタッフなのだ)が言うので着いていった所、彼らの合奏を聞けたというわけだ。もしかしたら、わたしでもタイトルを知っている有名な曲だったから親しみが込めれたのかもしれない。
数分ほどすると、他の部屋部屋から遠慮がちに音が踊りだす。ちょっと肌寒いけど、少し窓を開ける。どの音も楽しいので、練習されてるときはかならず窓を開けるのだ。いつも一番よく聞こえるのはヴァイオリンの音だった。澄んだ音色がわたしの耳に届く時、どうしようもなく楽しくなる。これを弾いているのは多分ブラックさんだ。そう思うとますます嬉しくなって、作業もそこそこに聞き入ってしまう。彼の演奏は、素人が聞いても判るくらい人を楽しませるものだと感じた。
また、この人達が公演に来るといいなあ。わたしは心の中で独りごちた。まだ公演も終わっていないけど、終わってからもこの音は聞いてみたいと思った。録音させてもらおうかな。封筒の糊付けが終わって、つぎは宛名を貼らなくちゃ。シールキットを用意すると、プリンタにセットする。今までアンケートを出してくれた人や、公演者達の住所を印刷しながら、乾いた味の空気を吸い込む。この瞬間がたまらなく好きだった。
練習が始まって2時間ほど経った頃だろうか。わたしは「はい」と返事した。ノックした人物は、眼鏡をかけたくせっ毛の彼だった。人懐っこそうな笑顔を湛えて、扉を閉める。
「こんにちは、さん」
まさか自分の名前を知られているとは思っておらず、わたしは頭の中でこの人の名前を思い出す。ええと、ええと、リ、リがついた気がする。人の名前を覚えるのは滅法苦手なのだ。リ、リー…ちがう、これ、ちがう。確かファミリーネームがポ、ポ…。逡巡し、思い出した。確か、ポッターさんだ。
「ええっと…ポッターさん?は、休憩ですか?」
「ええ、僕は一休み」
ポッターさん(合っていたらしい。よかった)はそのままわたしの正面の椅子を引いて座った。長い足をもう片方の足に乗せる。
「お疲れ様です、あ、よかったらお菓子いかがですか?」
「ありがとうございます、頂きます」
おかきを口にすると、彼の口からこもった音で「ボリッ」と音がする。何となく間抜けでかわいいので、わたしはこの音をだすおかきが好きだ。彼は小さく、おいしい、と洩らしてくれた。わたしはへら、と口元を緩めた。
「さんって、ここの職員を?」
「いや、ええとボランティアで」
「へえ、大変ですね」
「いいえ、その代わり、公演がタダで観ることができるんです」
わたしが言うと、ポッターさんは「へえ、コンサートが好きなんですか?」と相槌を打った。
「はい、皆さんの合奏も、素敵でした」
「でしょう!あ、フルートの彼女、良くなかったですか?」
「あ、赤毛の。素敵でした。ソロ部分の所とか、ほぅって見惚れちゃって」
「でしょう!」
自分が褒められたわけでもないのに、とても嬉しそうだ。もしかしたら、付き合っているのかな。ブラックさんはどうなんだろう。わたしはぱっとブラックさんの顔が浮かんで、慌ててかき消す。なんか、邪な気持ちでやってるみたい。今の、ナシ!
「ポッターさんは指揮ですよね」
わたしは話題を変えた。少し早口になってしまった。ポッターさんは特に気にしていないようで、ええ、と頷いた。
「そういえば、ここから一番よく聞こえる楽器って何ですか?」
「え?」
「防音だけど、たまに聞こえるでしょ」
「ええ、…ヴァイオリンかな、ブラックさんですよね」
ポッターさんは一瞬目を丸くして、すぐに目を細めた。「そうです」わたしは目を伏せて耳を澄ませる。今も聞こえる、彼の音。今練習している曲さえわからないくらい音楽の知識は無いけど、聞いたことのある曲。優しくて美しい色だった。
「これ、頂いていいですか?」「あ、どうぞ」机の上においてあった差し入れのペットボトルのお茶を、紙コップへ注ぎながらポッターさんは言った。
「ピアノは無理だけどさ、他の個室って選べるんですよ」
「…?はい、そうですね」
わたしはさっとこのホールの間取りを考えた。確かにこの一番隅の業務室の隣から、いつもヴァイオリンの音色が響いている。それでブラックさんを覚えたというせいもあるけど。ポッターさんは眉をハの字にして困ったように小さく首を振った。
「シリウスいっつもあの個室譲らなくて。寒いのに換気もするとか言って」
「…は、はい」
「あそこが良い理由でもあるのかなあ…。僕には教えてくれないんですけどねえ」
あまり困ってなさそうに(あまりっていうか、全然)微笑んで、机の上で指を組んでポッターさんは言った。わたしはその意味がよく判らなくて戸惑った風に頷く。つまり、何が言いたいんだろう。後で整備の違いを確かめておこう。
わたしがやる事リストにメモを走らせたとき、思い切りよく扉が開いた。わたしは飛び跳ねて扉を見やった。ブラックさんだ。ポッターさんはさほど驚いた調子も無く「やあ」と挨拶した。ブラックさんは少し怒っている風だ。
「ジェームズ!トイレじゃなかったのかよ!」
わたしはぱっとポッターさんを見た。休憩じゃなかったのか。ポッターさんは口の端っこを吊り上げてひらひらと手を振った。
「あ、ごめんごめん。彼女がかわいいから、ついうっかり。ね」
「!」
わたしの頬の温度がかっとあがった。ブラックさんは口をぱくぱく開閉させる。ポッターさんはにっこり笑ったままだ。ばっとわたしの両肩を掴んで、ブラックさんが尋ねる。
「君、何かされなかったか?」
「え?え?あ、はい」
頷くと、ブラックさんはほっと大げさに溜息をついた。そして、わたしの肩を掴んでいることに気付くと、慌てて「ごめん」と離した。ちょっと惜しかったりして。わたしは「いいえ!」とへんな回答をした。がたっと椅子を戻して、ポッターさんが持ってきた楽譜を手に微笑する。
「じゃあ、またね」
「お世話かけました」
ぐいっと見た目でもわかるほど強く、ポッターさんの頭を押し付けて、ぺこりと礼をする。「いたいいたい抜ける抜ける」涙目のポッターさんは、なぜか口元は笑っていた。不思議な様子に首をかしげていると、ブラックさんは頬をほんの少し赤らめたようだった。ポッターさんの腕を掴んで練習室に戻ろうとする。
「さっさと練習するぞ」
「ああ、シリウス、指摘する所一杯あるから。ビシビシ行こう」
ブラックさんはむっつりと仏頂面に、ポッターさんは鼻歌をしながら部屋を出て行った。途中、ポッターさんは出て行く際に、わたしににっこりと目で合図する。わたしも曖昧に微笑んで返したけれど、何を合図されたのかわからない。けれどわたしは、あの音を創っている人と話が出来ちゃった、なんて、ちょっとはしゃいでいる。来てくれてありがとう、ポッターさん。
やっぱりこのボランティアは、良い事ずくめかもしれない。なんて、現金かしら。
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あなたの音色のうらっかわ
「ねえ、シリウス。彼女、シリウスの名前は覚えてたんだよ。どうしてだろうねえ」
あれ、今、音はずれた?
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