ゆらり、ゆらり。気付くとわたしはひとり、やわらかなクリーム色の世界の中にたゆたっていた。上も下も右も左も一色に統一されていて、天井も床も壁もないその空間。時々薄く光るベールのようなものがわたしの横をすり抜けていく。何度かすくい上げようとしたけれど、それはするりと音もなく指の間からこぼれおちてしまう。まるで水のような感触。それなのに冷たくはない。おかあさんのおなかの中にいるときってこんな感じなのかもしれない。あたたかな光が体中に降り注いで、その心地よい海にずっとずっと浮かんでいたいとぼんやり思った。その世界は今まで見たこともないくらい、ただただ美しかった。そうしてただ流れのままに身を任せ目を閉じていると、今まで音のなかったそこにふと、微かな旋律が舞い降りてきた。それは最初は原型すら掴めない小さな響きだったけれど、時間が経つにつれてどんどん曲の形をなしていき、クリームの海を揺らしていく。ベールのようにやわらかくてでも一つ一つの音がとてもはっきりした力強いこの弾き方を、わたしはどこかで聞いたことがあった。でもどこで?誰が?そういうことが思い出せない。わたしは本能に動かされるままに、ゆっくりと瞼を持ち上げる。するとまっさきに目に飛び込んできたものは、クリームの海でも薄いベールでもなく、あどけなさの残る少年の姿だった。礼服に身を包み、少し長い髪を黒いリボンで束ね、バイオリンを弾き鳴らすその少年は、なぜだかこの世界には不釣合いなような気がした。すると睨みつけるような強い目がこっちを向く。鳴り止まない旋律。ひっきりなしに動く弓。すっと伸びた背筋。わたしはいつの間にか縫いとめられたように、彼から視線を外すことが出来なくなっていた。
「やーっと起きたな」
ハッと気付くと、目の前には変わらない練習室の風景と、ヴァイオリンを片手に呆れたようにわたしの顔を覗き込むシリウスの顔があった。夢?そうだ、夢だったんだ。だってここにいるのはいつものシリウスだ。だがそう思ったのは一瞬だった。視界を埋め尽くすほどのその顔の近さに、わたしは今まで見ていた夢が全部吹っ飛んでしまうほど驚いて身体をびくつかせる。その拍子に床に伸びていた足が何かを蹴飛ばした。するとなにやら盛大な音を立てて、たくさんの紙と固い棒のようなものがわたしとシリウスの頭の上に降り注いでくる。うおあっ、とぎゃああ、という2つの悲鳴が部屋中にこだました。
「おま…ッ、なにしてんだバカ!あぶ、あっぶねえな、もう少しで傷つくとこだぞヴァイオリン!」
「ごごごめ、つか、ちょ、いたっ、何か固いもので頭打った、いた、これ、ちょ、イッテー…!」
わたしが床に座り込んだまま頭を押さえて悶絶している中、シリウスは苛立たしげに倒れている楽譜用のスタンドを起こした。ああそれが当たったわけね、どうりで痛いわけだ。それにしてももう少し心配してくれたっていいんじゃないだろうか。わたしが涙を浮かべてこんなにも苦しんでいるというのに、このひとってばヴァイオリンの無事を調べた後は散らばった楽譜を拾い集めるのに夢中で、こっちを見ようともしない。
「今まで床でぐーすか寝てたやつにそこまでする義理はねえ」
ぽつりと不平を漏らすとそう言葉が返ってきた。どうやら少々ご立腹のようで、いつもより声のトーンが低い。わたしもそう言われてしまうと口を噤むしかないわけで、黙って楽譜を拾うのを手伝った。このシリウスの不機嫌は今に始まったことではない。オーケストラの本番は刻々と近づいているというのに、ヴァイオリン仲間のわたしの腕「だけ」がなかなか上達しないことに苛立ちを覚えているのだ。それを口に出して言わないのはシリウスの優しいところではあるのだが、最近スパルタともいえるその教え方・口調にピリッとしたものが混じり始めていた。わたしはそれを敏感に感じ取っていたので、なんとかしようと練習に励んではいる。けれどもともと才能がないのだから、すぐに上手くなるわけがない。実はこれでも音楽家の家系なのだが、悲しくもわたしにはその遺伝子は受け継がれなかったらしい。それでも彼はわたしが本番で恥をかかないよう丁寧に教えて続けてくれている。ホントシリウス様々だと思う。しかしそれほど尽くしているというのに、その相手が休憩時間を過ぎても昼寝を続けてるようなヤツじゃ、いい加減腹も立つってもんだ。そうですね、これは全面的にわたしが悪いですよね。
「……シリウス、ごめん」
「……」
「ごめんね、ほんとごめん」
楽譜を持ったまま両手を顔の前でぱんっと合わせる。どのように怒られる覚悟も出来ております、と言わんばかりに目をギュウッと瞑って審判の時を待つ。しばらくそのままの体勢を続けていると、ハアー、と長い溜息が聞こえてきた。恐る恐る目を開く。するとどこか諦めたように微笑みを浮かべるシリウスと目が合った。またもやの不意打ちに心臓がひとつ音を立てる。それに気付いているのかいないのか、シリウスは楽譜を持ってないほうの手でわたしの頭をぽんと軽く叩いた。
「ったく、もーいーよ。ほら、立てよ」
「あ、うん、えと、ごめん」
「もういいって」
日本人はホントに謝るのが好きだな。シリウスは小さく噴出すと、わたしの腕を引いて軽々と身体を引き上げる。たたらを踏んで立ち上がったわたしの手から少し皺が寄った楽譜を取ると、順番を確かめてスタンドの上に綺麗に直した。五線が規則正しく並んだ白い紙の上に、窓からのやわらかな光が降り注ぐ。その色がさっき夢で見たクリームの世界を思い出させて、わたしは何度か瞬きを繰り返した。シリウスの後姿に目を移す。切り揃えられた短髪。弾きにくいと言ってローブを脱いだその背はわたしよりも断然高くなり、ヴァイオリンを掴むその手は大きくて骨ばっていた。
「シリウス」
「んー?」
「さっきね、夢みてたの」
「ああ…どうりで」
「?」
「変な顔して寝てると思った」
「!?うそ、どんなっ」
「なんつーか、百面相?楽しそうだったり、何か言いたそうだったり」
見てて飽きなかった、と思い出し笑いをしているシリウスが憎たらしかったけれど、さっきの反省もあったので敢えてそれについては言及しないようにする。開け放した窓から他の練習室の音が小さく聞こえてきたけれど、今わたしの脳内を占めているのはまったく別の曲だった。まだとても小さい頃に聞いた曲。
「シリウス、わたしが寝てる間になにか弾いてたでしょう?」
「?ああ、暇だったし」
「その曲、昔も弾いてたよね、パーティーで」
わたしのその言葉にシリウスは目を丸くさせる。余程予想外の台詞だったようだ。その反応が面白くて少し笑みがこぼれた。シリウスは目線を泳がせてあー、うーと唸ったあと、罰が悪そうにわたしを見た。
「、あそこにいたのか」
「お父さんに連れて行かれて。ほら、ウチの親ちょっと有名だから」
「あー…そうだったっけか…娘はこんなにどんくせえのになあ…」
「悪かったね!」
(確かあれは、世界でも数本しかないといわれる有名なヴァイオリンの披露会だったと思う。当時のわたしはそんなことちっとも知らなかったし、今もよくわかっているわけではないけれど。しばしおとうさんの背中についてホールを歩き回ったあと、突然周りが静かになったと思ったら、中央の開けたスペースにひとりの少年が出て来た。ブラック家のご長男シリウス・ブラックだ、とおとうさんが肩を叩いて説明してくれる。わたしでも聞いたことがある。「純粋な魔法族の家」。わたしはもう一度その男の子に目を戻す。人ごみの向こうに立つ男の子はすでにヴァイオリンを構えていて、ひとつ呼吸を整えたあと滑らかに弓を滑らせた。魔法界ではとても有名な曲。わたしは当時ヴァイオリンを始めたばかりで、これよりもまだ遥かに下のレベルの曲を練習していたので、その上手さに驚くしかなかった。わたしと同い年くらいなのに、まるで先生みたいだったからだ。)
「そりゃ毎日7時間もレッスンしてりゃ、出来るようになるさ」
「う、うそ、そんなにしてたの…!!!?」
「クソババアのくだらない見栄のせいでな」
「(すごい…)」
(わたしが口をぽかんと開けて魅入っているうちに曲は終わってしまっていて、大きな拍手に意識が戻される。遅れて手を叩いていると、とても満足そうに微笑む一人の女性が目に入った。黒いドレスに身を包んだその女性はたくさんの人に囲まれていて、でも男の子から決して目を離さない。たぶんあれがシリウスという子のおかあさんなんだろう。わたしはそう予測をつけた。みとれるほど綺麗なひとだった。でもその整った顔が次の瞬間驚愕に歪んだ。何事だろう、とわたしが少年に視線を戻すと彼はまたヴァイオリンを構え、曲の始まりを奏でていた。するとさっきの歓声とは違うどよめきが観客の間に広がり始める。男の子のおかあさんはといえば、信じられないといった顔で口を押さえ、今にも倒れてしまいそうだ。わたしはわけがわからず首をかしげていた。なに?なんなの?するとわたしの頭の上で大人たちがひそひそと囁きあっているのが聞こえた。)
『まさかあの純血主義のブラック家が、マグルの曲を弾くとは』
(純血主義。マグルの曲。ブラック家の長男が。様々な声が飛び交う中、わたしは人ごみから這い出て、最前列の真正面からシリウスを見た。彼は弾きつづけていた。周りの言葉も視線も気にせず、ただヴァイオリンに向かっていた。一度だけその視線がわたしと合う。睨みつけるような強い目。強い意志がこめられているように思えて、わたしは視線を外すことができなくなってしまった。それは彼の奏でる音そのものだった。そのときわたしはなんとなくだが、気付いた。彼は何かに挑んでいるのだ。何かはわからないが、前に立ち塞がる、とてつもなく大きなものに。わたしは曲が終わっても彼のあの目を、音を忘れることが出来なかった。)
「…だって、ばかばかしいだろ。マグルの作った曲だからって、弾いちゃいけねえだなんて」
シリウスは壁にもたれて不機嫌そうに呟く。過去の自分の行いが恥ずかしいのか、少し目を逸らして。横の窓から差し込む陽が彼の顔に影をつくる。床に向けた目はそれでもあの時の意思の強さを衰えさせてはいなかった。彼はひょっとしたらまだ、何かに挑み続けているのかもしれない。ぼんやりとそんなことを思った。
「シリウス。わたしね、あれからあの曲、とてもすきになったの」
夢に見ちゃうくらい。そう言うと、シリウスはゆっくり顔をあげてわたしを見る。わたしは微笑んだ。
「もういちど、弾いてくれる?」
それ聞いたら、7時間でも8時間でも個人レッスンするから。そう言うとシリウスはようやく笑ってくれた。今頃真似したって遅ェよ、と軽くでこぴんを加えて。わたしは近くの椅子に腰掛ける。足を揃えて行儀よく。シリウスはそんなわたしを見てまたひとつ笑みを零すと、窓の側に立ち慣れた手つきでヴァイオリンを構える。立ち姿がとても綺麗だった。もちろんそのあと紡がれるカノンの旋律も。わたしは目を閉じて、音のひとつひとつを取りこぼさないように耳に閉じ込めていく。その音の間に「」と言葉がねじこまれる。ん?と返すと「ありがとな」という優しい声が降ってきた。わたしは思わず頬を緩ませる。クリーム色の世界は今確かにここにあった。
夢 み る カ ノ ン
(「すばらしいよシリウス!(ぱちぱち!)よーし決めた!その曲オケの最後に入れよう!」「ジェームズ!?(いつの間に!?)」「わーい賛成!(ぱちぱち!)」)