Dolce.




薄地のハンカチで額の汗を拭いながら、は溜め息を吐いた。三時間ぶっ通しのリハーサルのせいで、弦を引く右腕がじんじんと痛む。短い休憩時間に少しでも回復させようと、マッサージを思い立った時だった。隣で、の溜め息の原因であるコンサートマスターが、苛立った声音で呟いた。

「全然合ってねえ」
「何か言った?シリウス」
「別に。独り言」

シリウスはぐったりと椅子の背もたれに身体を預けて、意地悪な目でを睨んだ。どうしてこんなに性格の悪い男がコンサートマスターなんだろう、とは常々不思議に思っていた。勿論上手いからだ、というのは解る。解るがコンマスの役割を考えると、本当にこの男でいいのかと、どうしても疑問に思ってしまう。

「言いたいことがあるなら言ってよ、コンマスさん」
「独り言だっつってんだろ」
「嫌味な人」
「…じゃ、言うけど」

ガタン、と楽譜立てに足をぶつけながら、シリウスが体を起こした。灰色の瞳が、嫌そうに歪んでいる。は、この瞳に見下ろされるのが大嫌いだった。配置換えでシリウスの隣に席を置いた瞬間から、細々した指示を出す時、ヴァイオリンでパート練習をする時、シリウスはいつもこういう目でを見詰めた。下手糞、と心の奥で言っているのが、丸分かりな目だ。

「お前、一人だけ全然合ってない」
「…どこ」
「ここ。第三楽章の出だし。指示見ろ。何て書いてある?」
「ドルチェ?」
「馬鹿」

馬鹿、の言葉がカチンと来る。いくらコンマスとはいえ、言っていい事と悪い事がある。今のは明らかに後者だ。侮辱だ。あとでジェームズに言いつけてやる、とは心に固く誓った。

「お前、最初の八分音符が早い。一人だけフライングしてる」
「嘘」
「嘘じゃねえ」
「あなたが遅いんじゃないの?」
「は?」
「だって、私はちゃんとジェームズの指揮を見てるもの」

ジェームズの名前を出した途端、シリウスはまたこれだ、という顔をした。うんざりした仕草で、肩を竦める。まるで妹を苛めていたことを母親に告発された兄のようだ、とは思った。

「ジェームズジェームズって、いつもジェームズだなお前は」
「何が?」
「あのなあ、別に指揮者見んなとは言わねえよ。けど細かい指揮は俺が出してんだ、俺を見ろ」
「…」
「んだよ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言えよ」
「じゃ、言いますけど」

はさっきの仕返しとばかりに、出来る限り険悪そうな目つきをして、シリウスを睨んだ。

「あなたのボーイング、大袈裟で嫌い」
「おっ…」
「こーんな風に、こう、格好つけちゃって。動作が大きくて分かり辛いのよ」
「お前の頭が悪いだけだ!」
「みんな言ってるもん」

シリウスがさっと他のメンバーに視線をやると、ほとんど全員が反射的に目を逸らした。何人かはくすくす笑っている。シリウスはかあっと赤くなった。はそれを逃さずに、さらに追い討ちを掛ける。

「全部が全部ソロじゃないんだから、少しは協調してよ」
「な、なん、なんでお前にそんな事言われなきゃなんねーんだよ!」
「誰も言わないからよ!この目立ちたがり屋!」
「うるせえ下手糞!」
「へっ…」

激昂していつの間にか席を立っていたは、シリウスのストレートな物言いに、鼻の奥が熱くなるのを感じた。駄目だ泣く、と思った次の瞬間には、涙がぼろぼろと溢れ出ていた。慌てて両手で顔を覆う。シリウスが自分に対してそういう評価を下していたのは解っていたのに、いざ口に出して言われると、その言葉は刃物のようにの胸に突き刺さった。

「あーあ、泣かした」

しんと静まったリハーサル・ホールに、フルートの掃除をしていたリリーの冷めた声が響いた。他のメンバーも、リリーほど分かり易くはなかったが、シリウスを非難するような視線を送ったり、ひそひそと声を潜めたりした。こうなっては、分が悪いのはシリウスだ。そもそも喧嘩の原因になる態度を取ったのはシリウスだし、何より、女の子が泣けば百パーセント男が悪者になる。

かと言って、今更ごめんと言えるほど大人になれなかった。
シリウスが途方に暮れていると、暢気に口笛を吹きながら、ジェームズが現れた。

「よし、後半始めるよー…っと、…ん?なに、どうした?」
「シリウスがね、を泣かしたの」
「え!?」

シリウスが睨むのを物ともせず、リリーがけろりと言った。ジェームズは振りかけていた指揮棒を空中でピタリと止め、困ったようなむず痒いような顔をしているシリウスと、ぎゅっと体を丸めて嗚咽を洩らすとを、交互に見つめた。

「シリウス…」
「俺かよ」
「女の子を泣かすなんて、最低だ」
「今はお前の持論を聞いてる場合じゃない」
「私もそう思うわ」
「リリーは黙っててくれ」
「僕もそう思うんですけど」
「…リーマスそんな目で見るな……ああ、分かった、お前もだろ?いいよ、ピーター」

シリウスは自分のヴァイオリンを椅子の上に置き、隣でしゃくり上げるの腕をぐ、と掴んだ。は動かない。シリウスはの真っ赤になった耳に唇を寄せ、二言三言囁いた。それでも、は動かなかった。

「さあ、練習を始めるよ」
「おい…」
「さっきの続き、クラリネットのソロからだ。…ああ、シリウス」

全員が各々の楽器を構える中、ほとんど泣き出しそうな顔のシリウスに向かって、ジェームズが軽快に言った。

を泣き止ませるのも、コンマスの仕事だ。五時までには戻ってきてね」


* * * * *



熱くなった目蓋に、冷凍庫で冷やしたタオルがじんわりと染みた。視界が塞がれて何も見えなかったけれど、今はその方が有難かった。扉ひとつ隔てたリハーサル・ホールから、オーケストラの壮大な音楽が聞こえてくる。ヴァイオリンが二人もいないせいか、なんだか抜けた音だった。早く戻らなきゃ、と頭では分かっているのに、体が動かない。シリウスの一言は、まだ胸にずっしりと圧し掛かったままだ。

「…」

シリウスは、が横になっているソファの下に座り、テーブルに上半身を預けて煙草を吸っていた。くらくらするような甘い匂いが、頭の奥をマッサージする。この一本を吸ったら謝ろう、と決心したのに、口に咥えているのは三本目だ。我ながら大人気なかったな、と思う。後悔は大嫌いなのに、さすがに今日は大嫌い、では済まなかった。

「…なあ」
「…何」
「…そろそろ戻らねえ?」
「…行けば」
「俺、一人じゃ戻れねえんだよ」
「知らないよ…」

とん、と灰皿に灰を落とす。煙草は指に火が付きそうなほど、短くなっていた。

「なあ」
「…何」
「俺、お世辞とかフォローって苦手なんだよ。だから正直に言うけど」
「…」
「お前、やっぱり、ジェームズ見過ぎ」
「…」
「もっと、俺の事見ろ」
「…嫌だ」
「ボーイング直すよ。分かり易く指示する。…もう下手糞とか、言わねえから」
「…」
「その代わりお前も、もっと周りの音、聞け」
「…」
「俺の音、ちゃんと聞け」
「……分かったよ」
「分かったら行こうぜ。ジェームズに怒られる前に」

緩慢な動作で起き上がったに、シリウスが腕を差し出す。は、しばらく腫れぼったい両目をシリウスに向けないようにしていたが、諦めて、右腕を差し出した。そういえばマッサージし忘れたな、と思う。それもこれも、この男のせいだ。今度大袈裟なボーイングをしたら、皆で結託してコンマスから外してやる。

「ねえ」
「ん?」
「私の顔、変じゃない?」

シリウスはリハーサル・ホールの扉に手を掛けたまま、を見た。前髪は泣き乱れてぐちゃぐちゃだったし、目蓋は真っ赤になって脹れていた。普段のシリウスなら、まず酷い顔だ、と思っただろう。けれどその時、口をついて出たのは、自分でも想像していなかった言葉だった。

「大丈夫」

音楽の切れ目を狙って、扉を開ける。
一番に目に入ったのは、二人を見てニヤッと笑ったジェームズの顔だった。














(素敵な企画に参加出来て嬉しいです!千鶴子でした) 07 . 11 . 12