久しぶりに恋に落ちた。陳腐な言い方だけど、そうとしか言いようがないくらい、衝撃的だった。たった一度廊下ですれ違っただけなのに、名前も知らない彼女の顔が、頭から離れなくなった。俺は十年以上連れ添ったヴァイオリンを落としそうになるのをやっと堪えて、少し急いて駆けて行った彼女の後ろ髪を、見えなくなるまで眺めていた。 「病気じゃない?」 「そうかもしれない」 名前も連絡先もそもそも素性も分からない女の子、二度と会えはしないだろうとその夜枕を濡らした俺は、翌日、彼女がリーマスの新しいピアノの生徒だという事実を知って、狂喜乱舞した。 「運命だよな」 「ああ、ダダダ・ダーンって」 「いや、どっちかっつーと、タラララーンって感じか」 「それ、結婚行進曲だよね」 味気の無い部屋の味気の無いキッチンでコーヒーを淹れながら、リーマスは呆れたように呟いた。今にも倒れそうなアパートの、さらに瀕死の屋根裏部屋がリーマスの部屋で、ただでさえ狭い部屋の真ん中にビッグサイズのピアノがあるもんだから、黴の生えた床は今にも抜けそうなくらい歪んでいた。 俺はいびつな形の椅子に逆向きに座り、背もたれを胸に抱くようにして、リーマスを見上げた。あと十分、三時になったらレッスンが始まる。あのおんぼろの扉が開いて、薄暗いこの部屋に脚を踏み入れて、彼女は最初に何て言うだろうか?もしも俺の事を覚えていてくれてたら、そう考えるだけで鼻の下が三センチは伸びた。 「それにしても、君が一目惚れとは珍しいな」 「ほとんど初めてだよ」 「そんなに可愛い子だっけ?」 「フツー、かな?でも顔ってより、雰囲気がさ、こう、なんつーの、春の妖精?」 「はいはい」 「とにかくこれは口説かなきゃ、って閃いたわけ」 リーマスからコーヒーを受け取り、俺は彼女を初めて見た日の事を反芻した。彼女と廊下ですれ違った後、急いで楽屋に戻り(そういえばコンサートの後だったっけ)無我夢中で彼女の容姿と服装をリーマスに説明すると、もしかしてそれは僕の教え子になる子かもしれない、そういえば今日来てくれるって言ってたなあ、とか言うもんだから、俺はすっかり舞い上がって、彼女の初レッスンに是非立ち合わせてくれとリーマスに懇願した。 「俺の事、覚えてるかな」 「どうだろうね」 「やっべーすっげーそわそわしてきた」 「邪魔しないでよ」 「保証は出来ない」 「もう帰れば?」 彼女の母親とリーマスの親戚が学生時代の友人同士で、その時丁度新しいピアノの教師を探していた彼女の母親が、最近ピアノのコンクールで二位を獲ったリーマスの評判を聞きつけ、是非にと頼み込んだらしい。それを聞いて、俺はなんて羨ましい話だろう、と地団太を踏んだ。 もしも彼女の楽器がヴァイオリンなら、頼まれなくても手取り足取り教えてやるのに。 「てゆーかお前、ピアノの先生なんてやってたんだな」 「オケだけじゃ生活苦しいからさ」 「大変じゃねえの?」 「そうでもないよ。僕は人に物を教えるのが苦じゃないし、若い才能って刺激的だから」 楽しいよ、とリーマスは言葉を続けてコーヒーを啜った。 「でもいいのかよ、一人暮らしの男の部屋に、うら若き乙女と二人きりなんて」 「さあ?それだけ信用されてるって事かな」 「なんで」 「知らない。でも僕、年配のご婦人方にはウケがいいんだ」 リーマスが肩を竦めるのとほぼ同時に、玄関のチャイムが鳴った。チャイムといってもそのへんで買ってきた鐘をドアの外に吊り下げただけのもので、俺が試しに引っ張った時は床に落ちて酷く不愉快な音を立てたシロモノだ。リーマスはコーヒーをキッチンに置いて、俺に目配せしてから扉を開けた。 俺は慌てて椅子に座り直し、鏡を見て前髪をしぱぱぱっと直した。やっと会える、と思うと腰が砕けそうになるほど、甘い痺れが体中を襲った。 「いらっしゃい。汚い部屋だけど」 「お邪魔します」 きれいな形のスカートがふわりと揺れて、俺の心臓もぐらりと揺れた。あの時一瞬だけ見て焼き付いた彼女が、今、目の前に立っている。端正な顎のラインに、それを包み込むようなシルエットの黒い髪。彼女は柔らかい笑顔を浮かべてリーマスに挨拶し、それから部屋の奥にいる俺に目を止めて、小さくあ、と声を洩らした。 「ヴァイオリンの!」 「あ、知ってる?同じオーケストラの友達なんだけど、今日、君のレッスンを見たいからって」 「知ってます、こないだのモーツァルト、すごく素敵で…」 うっとりと溜め息を吐く彼女に、俺は本当にノックアウトされそうになった。初心な子供じゃあるまいし、頬を紅くするなんてみっともない、と頭の中では分かってるのに、気が付けば俺は頭で目玉焼きが作れそうなほど熱くなっていた。リーマスの冷ややかな視線でやっと意識を取り戻し、俺は立って彼女に挨拶しようとした。 思っていたより好感触、なにより彼女は俺の演奏を気に入ってくれてるし、これは恋愛関係に発展するまでそう時間はかからないんじゃないか、と俺が確信したその時だった。 「あ、入って入って」 「すいません、お邪魔します」 彼女に導かれて、背の高い、若い青年が部屋に入ってきた。俺は一瞬で、彼女とその男を繋ぐ見えない糸の匂いを嗅ぎ取った。つまり彼らは恋人同士で、それこそが、彼女の母親が一人暮らしの男の部屋にピアノを習いに行くことを許した理由だった。 レッスンの間中魂が抜けていた俺は、リーマスの淹れてくれた新しいコーヒーの香りで、やっと我に返った。呆れたような哀れむような目でリーマスに見下ろされたとき、俺は不覚にも涙が溢れてくるのを止められなかった。一目惚れでも、本当に好きになっちゃってたんだなあ、と今更実感して、さらに泣いた。まるで煽るように、リーマスが酷く美しいノクターンなんか弾くから、俺はその日で、一生分の涙を流し切ってしまった。 |
(滑り込みな上に二作目ですごめんなさい!千鶴子でした) 07 . 12 . 10
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