(月と花の童話)>


 彼が初めて少女を見たのは、山のお城の晩餐会。
 シャンデリアは星を散りばめて、ドレスの花が回廊の至る所に咲き乱れている。美しい装いの、美しい男女が、あちらこちらではなやかな笑い声をさざめかせ、吹き抜けのホールはまるで、楽園の温室のような色と花の洪水。丸天井の天使が、この煌びやかな饗宴の様子に思わずつられて降りてくるのではないかしらと、小間使いの少年には思われるほどだった。
 その会場のどの女より男より、美しいと思われる少年がひとり。
 彼はその自らの美しさを重々承知していた。
 少年の域をほとんど脱しかけて、青年期に達しようとしている彼の背はすらりと高く、十六、七くらいだろうか。白金の髪は夜にあってやわらかな昼下がりの陽光を切り取ったように明るかったし、その肌は白く滑らかな陶器のよう。指先まで優雅な形をして、その爪先まで繊細な様子。頬は微かにばらの色して、目玉は見事な星屑の青。
 完璧なまでの造形美を持つその少年は、真っ青な夜会着を洒脱に着こなし、かすかなほほえみを浮かべている。白い手袋を止めるアメジストのカフスは、そこにすみれが咲いたよう。
 誰もが彼を、驚きと称賛の目で見つめた。
 なんと美しい夢であることか。夜の宴に光の王子が舞い降りたようだ。
 不思議なことに、彼がどの伯爵だか公爵だかの子息なのか誰も知らなかったが、ほとんど常に大臣が隣においているので彼の血縁かそれに類するものなのだろう――いずれにせよその優美な立ち振る舞いと滲み出るような気品は、高貴な生まれに違いあるまいと眺めてはほれぼれため息をついた。

 彼と一曲、いいえ、一小節だけでもワルツを踊れたらどんなにか素敵なことだろう。
 ホールのご令嬢もご婦人も、ご夫人ですらも、みなその美しい手のひらに自らの手のひらを重ねて音の波に乗ることを想像するだけで身悶えした。
 自らの娘が、あの貴公子と一曲、いや、一小節でもかまわない、踊って見初められでもしたらどんなにかすばらしいことだろう。
 美しい娘と野心を持つ男たちも、そうして結ばれる縁による成功を思うだけで天にも昇るような気がした。
 花園に舞い降りた美しい蝶に、花々がため息を吐いてこちらへこちらへと手招くように、彼にホール中の視線が注がれている。それは息が詰まるほどで、しかしそれもまったく意に介さないように、彼はゆったりと、少し目を細めてワルツの様子を眺めていた。その超然とした様子もまた、花々をうっとりとさせた。
 実際彼は、それらの視線なぞ気にもしていなかった。けれど、それでもやっぱり段々と煩わしい。隣に立った大臣の耳元に「少し外の空気を吸ってくる」 とだけ呟いて、彼はくるりと上着の裾をはためかせた。胸元の宝石が、月のように輝いた。
 音楽と興に勤しむ囁きの満ちたホールを抜け、暗い庭の方へ。
 彼は退屈していた。
 退屈していた。怠惰だった。すべては美しく着飾り、豪華で、きらびやかな、夜の宴。しかしそれにすら彼はどこか飽いていて、退屈を持て余している。こうして駄々をこねて晩餐会へ来てみたものの、それは変わらない。世界は退屈だ。人間はすぐに死ぬ。

 長い回廊を歩きながら、彼はぼんやりと思考していた。高い踵が大理石の床を蹴る度、高い音を立てる。コツリ、コツリ。靴の留め金の真っ青な石が、濡れたように光る。裾のレースも、結わえた髪のリボンも、どれも最上級の、美しいもの。金糸でかがられた刺繍の細工を眺めるだけで、ため息が出そうだ。しかしどれもすべて一瞬の感情、その次にはもはや興味はない。
 ふう、と冷たい風が彼の頬を撫でた。
 回廊に面した庭は暗く、青い影のなかにある。
 それを見つめ、ふと、彼は少し先を何かが横切ったのを視界の端に捕らえた。白いドレスの裾が、見えたように思う。
 舞踏会を抜け出してきたものがいたのだろうか?
 少し珍しくて、彼はゆっくりとそちらへ歩いた。
 柱の影の人物は、小さくなって、息を殺しているようだ。
 彼を追いかけてきた、というわけではなさそうだ。おそらく彼よりも先にここにいて、人が来たのに驚いて慌てて隠れたつもりなのだろう。彼は少し微笑した。よい退屈しのぎになりそうではないか。
 白亜の城の、回廊の明かりは燭台だけで、長い影が磨かれた床に伸びる。一本の太い柱を覗き込むようにして、それから彼は息を止めた。
 隠れていた人物は、小さくなっていたわけではない。
 実際に、小さいのだ。

 ――少女。

 少女は人目を避けるように、回廊の柱の影に佇んでいた。
 花があると思った。
 そこには花があった。
 美しい花。柱の影に隠れて咲いていた。
 まだあどけない少女だ、社交界に出たばかりか、だとしても少しばかり時期が早い。まだほんの少女なのだ。しかしその、親の急ぐ気持ちも頷けるような、美しい少女。豊かな黒髪を結い上げて、後れ毛は背中に流している。雪の肌に、細いからだ。触れれば溶けて消えるだろう。ああそしてその、美しいすみれの瞳。同じ色のドレス。不安げな目をして、しかしまっすぐに彼を見上げた。その毅然とした態度は貴婦人のそれ。

「…名は。」

 "フランス"の口調をしていた。大臣に駄々をこねてここへ来た。絶対に"国"だと知られないこと。そのための彼の血縁の子爵であるというままごとの設定も吹き飛んだ。
「…。」
 少女はそっと答えてそう言った。
 声ざままでも美しいと、彼はそう思った。美しいことは彼の中において絶対である。そしてまた美しさは彼のものでもあるのだ。彼は美しく、それ以上に美しいものを好んだ。

「年は。」
「…とう。」
 
 自分の胸の辺りまでの背丈。
 彼はそっと、時すらも止めるような美しい動作で少女の前に跪くとその手を取った。やわい手の平。ひどく小さい。その雪の上にそっとくちびるを落とす。なにかの儀式のように。
 その光景を見ていたものが居れば、きっとその美しさに息も心臓も止めただろう。完成された絵画のような二人の少年少女の構図がそこにあった。
 少女は目を少し丸くして、少年を見ていた。少年は跪いたまま、不思議な星の瞳で少女を見上げる。その目と菫の目が合う。まるでこの世の最初から、そう決まっていたかのように、ふたりの目が合う。カチリとどこかで、なにかが嵌る音。
「俺とおいで、。」
 彼の言葉は、夢のような、まるでなにか人間ではないもの以外には発せ無い響きの、美しく有無を言わせない形をしていた。

「お前はうつくしい。」

 少女が頷く。やくそくだ――ときのはじめからの。
 その手を引いて、彼は少女を抱え上げる。ひどく軽い。細い腕が落ちないようにと、遠慮がちに彼の頭に回される。幾重にも重なったドレスの裾は、花びらに見えた。少女が少し、彼の髪を結わえたリボンを引く。サテンのそれは驚くほど軽く解けて、金の髪が舞った。
 少し驚いたように、手に残った真っ青なリボンを見つめている少女に、彼が笑う。抱え上げているのでずいぶんと顔が近い。
「こら。」
「…ごめんなさい、」
 ちょっと少女もわらったようだ。
「しっかり持っているんだよ。」
 なくさないように、そう言って笑った彼に、少女はコクリと頷いた。雪の手のひらに青いリボンが、しっかりと握りしめられている。それを横目に確認して、彼は来た道を引き返し始める。
 花。花だ。花を見つけた。
 みなどんな顔をするだろう。
 ホールの入り口に立っている侍従たちが目を丸くして、そして道をあける。漣のように聞こえるざわめき。ホールの中は光に満ちて、音楽が聞こえる。ゆったりとした、ワルツ。
 一歩、彼が光の中へ踏み出す。

 踵が一度、たかく、鳴った。

 彼が、少女を抱きかかえて現れたことにホールは一瞬静まり帰った。
 腕の上に乗せられて、頭ひとつ彼より背の高いところにある少女の目玉は、少し不安げで、しかしそれでも落ち着いて上を向かれている。少年の肩に、小さな手を添えて、すみれの色をしたドレスをまとった美しい少女は、背筋を伸ばしていた。その光景に、ざわめきどころか、ワルツさえも止む。
 おや、と眉を片方上げて、彼はわらった。
「ワルツの続きは?」
 はっとしたように、音が流れ始める。銀のタクト。チェロと、ヴァイオリン、ヴィオラ。
 絵に描いたような美しいふたり。少女と並べると、彼はもう青年としか見えない。美しい青年に抱えられた、美しい少女。まだ幼い。真っ青な夜会着、淡い菫のドレス。
 人々の中を、魚のように悠然と、彼が割って歩く。
 フロアの真ん中までくると、彼は少女を床の上におろした。衣擦れの音。
 そうして軽やかなワルツに乗って、ふたりは滑るように踊り始めた。流れるような、音の波。そのなかを、ひるがえるひるがえる青と金、すみれの花。美しい夢。