(月と花の童話) |
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「いったいなんのつもりだフラン…フランシス!」 そう怒鳴りつけられても彼はひょいと肩を竦めただけだった。彼に再び抱え上げられた少女の方が、その声の大きさにびくりと肩を震わせている。 「ああほら、」 うっとりするような、どこか艶のある声音で、彼が少女の髪を撫でる。 「大丈夫。」 吸い込むように言葉が発される。 「こわくない。」 あまやかな声。低いそれは、彼がもはや青年になろうとしていることをふいに思わせる。それに少女は少し頬を緩めて、フランシスと呼ばれた彼の首にやさしくしがみついた。それに気をよくしたように彼は笑って、やはりそれすらもうつくしい。 「俺もう決めたの、この子をもらう。」 「もら…!」 絶句する大臣を気にした様子もなく、彼はただ、「いいだろ、なあ、イヴェール」 と言ってのけるばかりだ。犬猫じゃあるまいし!という言葉を喉のあたりに詰まらせて、大臣は目を白黒させていた。その間にもフランシスは、人の隙間を縫って、彼女の親を見つけ出していた。我が子が会場の注目の的であった美しい貴公子に抱えられていることだけでも驚きなのに、その彼のいうことには「お宅のお嬢さんをぜひ養女にくれないか…彼の。」 である。ちなみに貴公子の言う"彼"とは大臣のことであるらしい。大臣といえばかの有名な公爵家の頭主である。落ちぶれ気味の男爵家の一家は、降って湧いた話に目を白黒させるばかりだ。 「いいの?だめ?」 「いえ、そんな、駄目では。」 「じゃあ決まり。」 おいでとフランシスがわらった。 「フランシス!!」 やっと混乱状態から抜け出して、大臣が叫ぶ。 「いいでしょう?"叔父上"。」 ままごとの設定に、大臣が喉を詰まらせた。彼はひたすら満足げに、少女を撫でてやるばかりである。 それももう少し古い話、春は駆け足で過ぎて、三年が経とうとしている。 子猫が懐くように、少女は彼に懐いた。 「美しくなるぞう!」 大臣がほくほくと言った。最近彼は、下手をするとフランシス以上にをかわいがる傾向にある。彼の娘たちときたら、母親に似て首の長く骨ばった口やかましい甲高い声のお嬢さん方であるから、本音はのような娘がほしかったに違いない。まったく老獪な大臣が、のこととなるとただのふくよかな好々爺になるのだからおもしろいことだ。それでもが自分から抱きついたり甘えたりといった仕草を見せるのはフランシスにだけで、それが彼の自慢のひとつでもあった。 大臣は言う。これだけ今から美しいなら、成長したらどんなにか美しく育つだろう。気性も優しい、大人しく、分を弁え、慈悲深く、賢く気高く、勇気もある。王家へ嫁がせることもきっとたやすいだろう、と。 それを聞く度、フランシスは残酷な気分になった。 そう、そうだ。は成長する。細い体。ふくらみかけた小さな胸の下に、貴婦人は潜んでいる。ああどんなに美しい、花の娘に育つだろう。 けれど、けれど―――。 「…お前も年をとるの?」 昔この大臣も、彼と同じ背丈で、彼と遊んだ。 この少女も、やがて彼を追い越し、恋をして、子供を産み、育て、そして。 (………朽ちる。) それはなんとも惜しいことに彼には感じられてならなかった。 かわいいかわいい。彼の花。 やがて大人になれば、少女は恋を知るだろう。少年に子猫がなつくのとは違う、恋だ。こちらは一目見たその時から、花のとりこだと言うのに。いつかさらわれてゆく。それもただの人間の男に。 (――――口惜しい。) そこまで考えて彼はわらう。ははと吐き出された息は乾いて、目は決して笑ってなどいない。 恋をしている―――ただの人間の、それもまだ年端もいかぬ少女に。 「恋なものか。」 ガリと一度爪を噛んで止める。美しくない。こういう動作はあの離れ島のチビにこそ相応しいのに。 「……恋なものか。」 こんなにも暗く、重苦しい感情が、そうであるわけはない。ただの妄執、ただの狂信、ただ手放し難く、許し難い、すべて。離すものか。はなすものか。少女はあまりに美しく―――にくらしい。 彼は顔を上げた。 星の目が不思議に影の中、ひかる。 が欲しい。誰にもやらない。えいえんにえいえんに、手のひらの中に閉じ込めておきたい―――少女のままで。かあいらしい子猫のまま、なにも知らぬ少女のまま。恋や愛など知らなくていい、ただ、すぐ、側に。留め置いておきたい。それこそピンを刺して標本にでもしてガラスケースに閉じ込めてしまいたいほどだ。本に挟んだまま仕舞いこみたい。瓶に詰めてうずめてしまいたい。 どうすれば、どうすればそれが叶うだろう? どうすれば、 どうすれば、 どうして、 なぜ、 ああ、 噫。 『かわいそうなフランシス。』 思わずゾクリとするような、悩ましい声音が届いた。 「だれだ、」 振り返った先に、女が立っていた。女は、長い深紅の髪を美しく揺らめかせ、笑っている。造作の酷く整った顔形。それだけ見れば聖女のように清らかで、しかしその瞳の真紅(ルビー)。それは魔性でしか有り得ない。美しいくちびるが弧を描き、彼はそれをどこか無感動に眺めた。 闇がきたのだと、そう思った。 真っ赤なドレスは体のラインも露に、しかしなぜこんなにも無機質なのだろう。 自分ほど美しくはない。どこか冷徹な気持ちで彼はそう評価を下した。 女がわらう。わらっている。 『かわいいあのこにおいていかれる、』 「…」 『哀れだこと。』 腹立たしい女だと思った。 『あの娘の時を止めたいのでしょう?』 「とめたい。」 しかし気づけば、その問いに即答していた。 『「この世にあるありとあらゆる事象は、時を止めることを許されない。例えそれが、その時自身を司る私であっても。」』 詩を詠むような、響きだった。 「誰の言葉?」 『時の神ゼクス。』 不気味に微笑みながら、女が一歩、進み出る。 『そう、あなたたち"国"であっても年を取る。ごくゆっくり、ゆっくりと、ほぼ止まって見えても成長する。…" こ の 世 の "ありとあらゆる事象は。』 「…なにが言いたい?」 『この世のあらゆるものに時はとどまらない。ではこの世のものでなければ?―――時はそれを避けて通る。決して立ち止まらない。』 もうすっかり女は彼の傍らまで来ていた。耳の上の角、羊に似ている。――人ではない。 『この世のものでなければ。』 「…あの世のものにしろと?」 その問いに、いいえ、と女が笑い声を上げる。高く、妖艶で、とても耳障りな声だと思った。控えめで小さな、花の声、の声が聞きたい。女はなおも、笑っている。 『殺すよりも残酷なことを。』 そうしてすぐ彼の顔の真横で、女の赤い唇が弧を描いた。血塗れた三日月に似ている。そう思った。 |