(月と花の童話)


 彼が初めて少女を見たのは、かの豪奢な宮殿の回廊。
 シャンデリアは星を散りばめて、壁の黄金の花々がいたるところに咲き乱れていた。吹き抜けのホールはまるで、楽園の温室のような色と花の洪水。丸天井の天使が、なんとなく静謐な微笑を浮かべ、笑い、さざめきながら、彼を見下ろしていた。

 望んでこの地を訪れたわけではない。
 華やかな街、華やかな都の、華やかな宮殿である。どうにも落ち着かない。宮殿の中だけではなく、街を行く住民たちですら、あかぬけて洗練されて見えた。そこを重たい足取りで歩く彼だけ、雨でも背負っているかのように暗く沈んで見える。すべての人間に、まあなんてあかぬけないやぼったい少年だろうと、わらわれているのではないかと、毅然と凛々しい眉間に力を入れて歩きながらも、内心彼は気が気ではなかった。実際に彼がこの異国の地を訪れるとき、その服装や髪型、そういったものはその地で少し前に流行した古い型といわれるのだった。
 少し伸ばしすぎた前髪を気にしながら、彼はずんずんと歩く。
 嫌な仕事。嫌な仕事だ。
 さっさと終わらせて、帰ろう。帰って、森の泉に行こう。そして、木の虚にみつけた透明な花をながめて、それからユニコーンと昼寝をして、妖精たちにこの花の都の土産を渡してやって、それから、それから…。
 そうやって先の楽しい予定を考えることで、彼は少しでも自らが歩く絨毯の美しさだとか、擦れ違う給仕の人間たちのすっきりとして優雅な仕草だとかを、気にしないようにしていた。
 なにもかもが匂うように咲き誇って、まったく鼻につくったらない。

 ふいに壁にかけられた鏡に、自分の姿を見つける。
 ぼさぼさの髪の毛。蜂蜜に似た、金の髪。おいおいなんて顔をしてるんだ、ミスター・イングランド。自分でも思わず、少し苦々しい微笑を浮かべた。初夏の緑をそのまま嵌め込んだような目の下は、泣きすぎて赤く擦った跡がしっかりと残っているし、その目はいかにも不安げに、そしてそれを悟らせまいとへんに力んで、うろうろとしている。まだ十五、六にしか見えない体。ああそんなに背を丸めたら、小さく見えてしまうではないか。
 これではだめだ。
 しゃんと背筋を伸ばし、少し服装を整えてから、彼は歩き出す。まったくなんでこんなにもあちこちに鏡があるのだろう。煩わしくって、気が滅入るったらない。
 あこがれて止まない都だというのに、実際その地を踏むと不快で仕方がないのだから、困った話しだ。
 さっさと終わらせて。もう一度おなじことを考えながら、長い回廊の突き当りをかれが曲がろうとしたとき、ふいに小さな影が飛び出してきた。

「…っと!」
「!」

 少女だった。
 思わずとっさに受け止めて、そうして彼は目を丸くする。
 花だ。
 ふうわりと花が咲くような、美しい少女だった。羽のように軽い。長い黒髪をそのままに、頭に細いリボンを巻いている。そうしてギリシャ風のドレスを着て、薄い生地を重ねたまっすぐなシルエットの裾は、陽炎を纏って光に透けるように見えた。
 驚いた。
 ポオンと澄んだピアノの一音が、耳に飛び込んできたようだ。先ほどまでうるさかった宮殿のシンフォニーも聞こえない。淡い紫色をした目玉が、まじまじと彼を見上げている。吸い込まれそうな目だな、と彼は思った。十二、三くらいだろうか。その目は不思議と遠くを見ていて、その目だけ見ると年齢がわからないような思慮深さが見え隠れした。薄い皮膚は白く、少し強く支える腕に力を入れたら溶けて消えるのではないかとすら思えた。
 まるで儚げな、菫の花の風情。
 こういう美しさも、この地にはあるのだなとどこか遠いところで彼は考える。きらびやかで、華やかで、有無も言わさず納得させられる部類のそれとは違う。その瞳の色は、黄昏の色をしている――。
 ぽかんと見とれているうちに、少女が少女特有の、無邪気な明るさでぱっと笑った。

「ごめんなさい!」
 それにはっとして、彼は手を離す。
「かくれんぼをしていたのよ。こんな奥まで人が来るのはめずらしいから、つい前を見ないで走ってしまって…」
 あなただぁれ、と少女が首を傾げる。

「俺は、」

 答えかけた声が掠れた。
 緊張と、それだけではない。なにかが変だ。すみれの目。明るい少女の光だけではない、なにか、なにか。なにかがそこに…。

!」

 よく知る男の声だった。
「フランシス、」
 パッと笑って、振り返った少女を、走ってきた人影がさっとたくましい腕で掬い上げる。
 よく知った男。この宮殿そのものだ。きらびやかで、華やかで、有無も言わせず、美しい、男。
「まったくこのお嬢さんは!どこまで行くつもりかな?」
「フランシスに見つからないところまでよ。」
「それは困った。」
 親と子が、兄と妹が、そうしてまた、恋人がするように、顔を近づけて二人が笑う。美しい景色。美しい景色だ。なんとなく、前会ったときより、男が違う美しさを備えているように思い、またぽかんとしてしまった彼に、やっと気づいて、男が少し、いつも通りにニヤリという笑い方をした。

「おやおや、誰かと思ったら金色毛虫のアーサーじゃねえか。」
「…うるさい。黙ればかフランシス。」

 一瞬でも、男を美しいと思ってしまったことを彼は自分で自分を全力で呪いたくなるくらいには後悔した。まだちょうど二十歳に差し掛かるより手前くらいに見える、そのスラリとした美しい男に、彼は会いに来たのだ。会いたくて来たのではない。上司の命令だからだ。
 白金の髪。日光と月光を、編んで水に晒した色。
 アーサーとフランシス。そうお互いに呼び合った彼らには、もう一つ名前がある。そうしてその名ゆえ、彼らは幾度となく出会い、そして時には争った。
 少女ばかりが男の腕に抱えられて、不思議そうに微笑している。男をにらみ上げながらも、やはりその少女の様ばかりが美しくて、彼はそこに感じた違和感を忘れた。