(月と花の童話)


「……あいしている、」
 あの言葉の響きが、耳にこびりついてしまったように離れない。
「愛しているんだ。」
 フランシスの青い目。泣き出しそうで、決して泣かない。縋るような、突き放すような、孤独なことば。届かないことを知りながら、それでもそれを理由にすると言って囁かれたことば。
 見たことがないような、真剣な様子をしていた。
 あんな風に言われたら、何も言えなくて困ると、アーサーはひとりで腹をたてていた。
 フランシスのあの表情。その腕で眠っている、小さな娘。その小さな手のひらが、しっかりと彼の服を握りしめていた。花の庭で、どうしてあの二人は、雪の中にいるように白い頬をして。
 何も言えなかった。
 それでもアーサーは、思考し続けていた。
 確かにあの少女とフランシスからは、彼の仇敵の匂いがした。

 カチリコチリと時計が時を刻む。暖炉で火が燃えている。時計は十二時へと近づく。来るなら来い、と彼はいつになく好戦的な気持ちでいっそ待ちかまえてすらいる。常ならば暖炉の上にかけられている剣は、今日は彼の膝の上にある。
 そうしてやがて、ようこそここは麗しの深夜。
 広間の柱時計が、大きく12時打つ時。一人掛けのソファは鈍色。肘をつき閉じた瞼の裏は闇色。振り子の音を聞く耳は水底。彼の緑の目は過去を見ていた。
 花吹雪が彼の瞼の裏に舞う。その中に隠れた少女。
 目蓋を閉じる。すると振り子が繰り返す。滅せよ封じよあの魔を殺せ。彼はじっと頬杖ついて金の睫をひっそりと伏せている。あれも確かに魔だろうと、どこか冷たく検分している自分がいる。あれは魔だ。あれは魔。どんな美しく愛らしい花の形しても。あれはもはや、闇に棲むもの。
 チックタックと往復するのは死に神の鎌だろうか。
 夜中は静かだ、チックタック。
 ――チックタックチックタックチック。
 タック。
 チック。

 時が止まった。
 ボォンと鐘が大きく鳴って真夜中のお越しだ。うるわしの深夜。

『こんにちは、アーサー。待っていてくれてうれしいわ。』

 思わずゾッとするような、艶やかな声音。燃えるような真紅の裾の、赤い悪魔。
 普段ならば、決して口にはしない言葉を彼は口にした。
「…ああ。待ちわびた。」
 それにうれしそうに、女が少年の形をした王の横に擦り寄る。耳元に光る宝石は、血を凝縮させた結晶。罪深い深紅。爪の先まで鮮やかに染めて、女は赤い髪を一度揺らした。彼はまるで無機物を見るような目で、それをただ見る。膝の上の刃は、いつの間にか抜き放たれ、真夜中、暖炉の赤い火を反射させることなく、内側から青白く煌々と輝いている。

「お前に聞きたいことがある。」

 それは背筋も凍るような氷の言葉で、しかし女は、それに恍惚と身を震わせた。噫、なんてうっとりするような冷たい声音かしら、なんてゾクゾクする侮蔑の眼差しかしら。ペロリと薄い唇をまっかな舌が舐めたが、それすらも彼は無感動に眺めている。
 冷酷なアーサーは大好きよ、それからぼろぼろに傷ついてもがくお前はもっとずっと好き。
 女悪魔の言葉を、彼はまさしく無視する。
 それすら楽しそうに声を立てて笑った悪魔に、今度こそ彼はその鋭い剣の切っ先を向けた。暗い部屋に刃の残像が三日月のように青白く残った。
 女が嗤うのをやめる。
『なぁに。いきなり物騒なこと。』
「五月蠅い。訊かれたことに答えていればいい。…穢らわしい悪魔め。」
『それが人に物を訊く態度かしら?』
「貴様に払う礼などない。この剣にもの言わせない分感謝するんだな。」
 黙っている割にはおっかないこと。女が爪の先で剣を少し弾いた。ビイイイインと高く澄んだ音で警告を剣が鳴らす。それをおかしそうに赤い睛で眺めると、悪魔はすうっと眦を下げた。途端部屋の気温がぐっと下がる。
『古えの闘いの続きを始めるならそれでもいいよ。』
 低い男の声や獣のような声、鋼の声、悩ましい女の声。すべてが何重にも被さった声で女が話した。剣の輝きがその言葉に反応するように鋭さを増す。
 彼の緑の目と悪魔の赤い睛が静かに、しかし峻烈な冷気を宿して見つめあい、しかしそれも真夜中の一秒の間の一瞬。
 すぐに赤い睛のほうが年長者じみた動きで笑みの形をつくる。
『…けれど今日は機嫌がいい。聞いてあげよう。』
 もうすでに、それは女だけの声に戻っていた。
 気が変わらないうちに早くおしよ、と悪魔が肘かけに腰を下ろし、その細く締めあげたような細い腰と尻へと続く悩ましいラインが彼に寄せられる。それすら彼には、無意味で無価値な無機物よりも無明の無情。

「フランシスと。」

 その言葉に女は形のよい眉をなんのことだかと少し上げて見せる。
「知らないとは言わせない。」
『そうねえ、何人かその名前は知っているわ。珍しい名前ではないものね。』
「"国"のフランシスだ。」
 とぼける言葉を遮って、彼の緑の目が光を発する。悪魔は少し黙って、それから肩を竦めた。
『知ってるわ。』
「なにをした。」
『なぁんにも?』
「嘘を吐くな。」
『あら怖い。願いを叶えてあげたのよ。』

「そういうことを、聞いているんじゃない。」

 そうね、わかりきっているものね。
 急に退屈し出したように女が欠伸をして、腰を上げる。肩が凝ったと首を鳴らしながら、高いヒールが床を叩いた。『たぁいくつ、』 くれないを重ね過ぎて黒に近くなった蝙蝠の翼を、バサリと広げる。
「お前が誰と契約しようと、関係はない。」
『そうね、誰と契約したって、あなたには気にいらないんでしょう?』
「今度は何をたくらんでる?」
『なにも。あんまりかわいい二人だから、助けてあげたくなっただけ。』

「なにをした。」
 悪魔の慈悲などただただ嘘寒いだけの虚構。すべては彼女の娯楽のため。すべては彼女らの暇潰し。すべてはただのゲーム。すべてはただの退屈しのぎの手遊び。みな一様に飛びきりの悲劇がお好き。それは彼女らにとって、さながら最高級の砂糖菓子。
『人でなしの王子様の望むままに。人のお姫様の時を止めたの。』
 御伽噺よ、アーサー。すべては残酷な童話なのよ。神様に読んで聞かせるための。
 悪魔が歌うようにそう囁く。
「どうして。」
『だから、王子様ないし化け物がそれを望んだから。』
 癇に障るわらいごえ。
『元に戻せと言わないのね。』
「それがお前の言う"ゲーム"だろう?」
『そうね、その方法はあなたが見つけるのよ、魔法使い。王の証。退魔の剣。聖杯の息子、女王の僕。国の王、王の中の国。アーサーあなたの役割(ロール)だもの。』
 さあ始まり始まり。
 女が笑う。紅を引いてもいないのに、その唇の赤いこと赤いこと。それは毒の林檎の色をしている。
『今回は難しくってよ。だって王子様も化け物で魔法使いで国だもの。その彼が望んで、その彼が力を行使して、悪魔はささやかな手助けをしただけ。そうして二人はいつまでも末永くしあわせに暮らしている最中。いったいあなたになんの権利があってその邪魔をするの?馬に蹴られるわよぉ。』
 彼は黙っている。
 ゲームは始まった。賽は投げられた。いいや、とっくに昔に投げられていて、それに彼が気づいた。気づかなければきっと半永久的にそのまま。いつか自然に破滅するまで。虚構を積み上げ偽りで固めたしあわせ。それでもこうふくだときっと人は言うだろう。それを偽りだと笑う彼は、きっと神様よりも冷徹なのだ。悪魔のほうが、よほどの立派な慈悲深さ。
『お前の安っぽい正義感で、二人のしあわせを壊すの。』
「時を止めることなど…ありえない。おかしい。あの存在の形がおかしい。いつか破綻する。」
『早いか遅いか、お前の手によるか自然にその時が訪れるかだけの話だって?恨みを買うのがお好きだねえ、アーサー。』
「その名で呼ぶな。」
『どうして、かわいいアーサー。』
 つ、と女の指先が彼の顎のラインをなぞった。
 剣が横に薙がれる前に、カチリ、秒針の音。真夜中の一秒が去る。

『どうするというの?彼らが望んだことなのに。』

 そうして声だけ、暗い部屋に残る。
「待て、」
 魔がわらう。声ばかり木霊する。
「お前は。…彼ら、と言ったのか?」
 虚空に向かって愕然と問いを発する彼の真後ろで、赤い唇が嗤った。
『言ったわ、アーサー。』
「彼らだと…?」
『なにを驚くの?彼らよ。フランシスとかわいい。』
…!」
 振り返った先にはなにもなかった。ただ声だけ。その声だけ。
 そうよ。アーサー。

『あの娘もまた、』

 それを望んだ。