(月と花の童話)

 平安の頃ならもっとましな術者がいたものなのだが。
 呆れたように困ったように東の国の権化はそう言った。
 アーサーの受けたアドバイスは簡単なこと。受け取ったのは古びて黒く曇った鏡。
 鏡は光を映すもの。では何も見ようとしないように目を閉ざしたままのこの鏡は?
 この鏡は闇を映す。見えないもの、隠されているもの、光を通さないもの、映し出す。
「…しかし私は、」
 それを私てから、夜空の目で男は不思議な微笑した。
「この世の理を曲げねば、こうふくになれぬというのなら、それもまたひとつの道と思う。」

 そんなこと知っている。わかっている。
 しかし。曲げれば歪む。捻れば撓む。歪んで撓んで捻れて曲がって―――やがて破綻する。破滅する。決壊する。還付なきまで。戻れないほどに。
 こぼれたミルクはかえらない。ハンプティ・ダンプティ、塀から落ちればそこでさよなら。ねずみのかじったチーズは永久にそこなわれたまま、割れたお皿は指を切るばかり。壊れてなくして消えたあと、後悔してももう遅い。それと同じだ。
 そうして先に壊れるのは女の子、女の子。もとは弱いただの人の子。
 残されるのはかなしい男。ほとんど死ねないあの男。
 後悔するのは男。男。彼と同じ国の子どもだったもの。こんなに大きく育ったというのに、さびしさに負けた寂しい男。

 その気持ちがいつか自分にもわかるときが訪れるのかもしれないと思うと、とても平常ではいられない。いつか、アーサーが、人間の少女にどうしようもなく狂うくらいの恋しないなど、どうして誰かに言い切れるだろう。それでなお君はおゆきと涙を呑んで見送れる保証が、いったいどこにあるだろう。
 自身を置いて駆け足で年を重ね、その少女がただの人間の男に浚われてゆく様を、親兄弟のような眼差しで見守れる根拠が、どこにあるだろう。
 どこにもない。
 どこにもないのだ。彼には自信がない。自分が今まで弔ってこれたのが不思議だとすら感じる。自分たちの歩みがゆっくりなことを呪ったことがないなどと、どうして誰が言えただろう。
 だからこそ。だからこそだ。
 なんとなく、ぼんやりと見えてしまう。破綻した後のこと。どんなにフランシスが、嘆き苦しみ後悔し懺悔し自らの業を悔やみに悔やんで――――――くるうかを。

 だからだ。
 もう一度アーサーは自らに言い訳するように繰り返す。だから。だから。歪みに耐えきれなくなって破綻するその前に。
 恨まれようが憎まれようがなんだろうが。
(…関係ない。)
 二人のため?違う。二人のためなら捨て置くべきだ。こうするのは、自分が黙ってみていることが耐えられないから。

 長い回廊を進んでゆく。
 極東の魔法使いから授かった鏡が、いったいどんな力を発揮するか、彼にはとんとしれない。
 ただでさえ億劫な、華美な都の空気が、さらにいつもの倍は重たく感じられる。それでも大きく一度、吸って、吐いて。
 しかし百年、彼は待った。この気味の悪いほどの美しいこうふくの虚構を紡ぎ出す、呪いの解き方をわからなかったから。少女に対しては友人として、時に兄のように弟のように接した。男に対しては、変わらずつっけんどんな態度で、しかし本当は決して、嫌ってなどいない。そうしてついに、遥か東の方に、物語の鍵を見つけた。
 だからこの奇妙極まりない友好の時間は、おしまいだ。噫おしまいさ。

 気づけばあっという間にの部屋の前。重たい真鍮の、ドアを叩いた。
「はあい、」
 軽やかな少女の声。
「どなた?」
「…アーサーだ。」
 返す語尾がかすかに震えた。
「アーサー!」
 嬉しそうな声。彼は自らを七匹の山羊を喰らいにきた、狼のようだと思った。
「いらっしゃい!ジャポネから帰ってきたのね!」
 扉が開く。花の少女。異国の土産話を楽しみにしていたのだろう。入ってと促す笑顔が満開だ。
 しかしアーサーは、燦々と注ぐ光の中、廊下に立ったままでいた。
「アーサー?」
 が首を傾げる。部屋のなかはうっすらと影っており、廊下が眩い。アーサーの緑の目だけ、金の光の中静かにきらめいているのが見えた。

 変だ。
 やっとは気がついて、身を竦める。しかしその足は、縫いとられてしまったように動かない。
「アー、サー?」
 震えた少女の声音に、恐ろしいほどの無表情、彼は一歩、廊下から部屋の敷居を跨いだ。ぐんと部屋の四隅が自分から逃れてゆくようにには感じられた。壁紙の唐草模様が遠ざかる。
 なにか変だ。
 なにか、
 なにか。

「…アーサー、あなた、」

 彼は答えない。重たげな足取り。しかしその歩みが止まることはなく。
 少女が立ちすくんだまま悲鳴をあげる。
「アーサー、なにもっているの!!」
 真っ青になった頬。それでも彼女は動くどころか倒れることすらできずにいた。
 近づいてくる。緑の目。いつもと違う。なにか。

 ア " ー " サ "ー" は " な " に " か " 持 " っ " て " い " る "。

 それに近づきたくない。近寄られたくない。よくないもの。よくないものだ。よくないものが、
「来ないで!」
 コツ、と彼の踵。
「いや、アーサー、なに持ってるの、いや、やだ、だめ、いや、いや、いや――――!!!」
 アーサーがポケットから、小さな円盤を取り出すのが見えた。彼女は譫言のような拒絶から、もはや断末魔のような声をあげて、それしか知らないようにただフランシスと男の名を叫んだ。

 繋いだ手と手を離したくない。離さないためにいつもわらっていることをのみ選んだ。そのためには時も未来も過去も現在も人の身すら捨てて鳥の籠に隠った。どうして光の人は籠の鳥に哀れをかけてはその戸を開けようとするのだろう。
 繋いだ手と手を離したくない。
 縋るように抱きしめる腕が、優しく殺めるように目隠しをした手のひらが、醜いことなど承知の上で、自らが少女でありながらもはや醜くあさましいことも悟った。それでも彼は美しかった。醜い泥をかぶり、それでもその手はあたたかく。
 フランシス。私だけのあなた。
 その手を離したくない。血塗れている。汚れている。醜い、泥にまみれた、狂って歪んだその手。のためといって神をも欺き、幾つも嘘を吐き、隠し、醜いものから遠ざけようとする手を持ちながら、その自身こそもっともきたないのだと怒り。その手が触れる度、に泥と血がつくことを恐れながらも触れずにはいられない。
 だからこそその手を、彼女はとった。
 だからこそいとおしかった。愛が美しいだけでなんになるだろう。それを悟ったあの時から。その時からあんなにも恐ろしかった夜の闇を近くに感じるようになった。気づけばなんということはない。闇こそが、いつも傍らに、誰の心にもあるもの。
 彼のどこが醜くきたないというのだろう。こんなにもいとおしく離れがたく美しいひと。
 憎んでくれとあなたは言うだろう。そしてその心が叫んでいる。あいしてほしい。あいしている。

「いや、」
 どうして憎めるだろう。
「フランシス!フランシス!フランシ―――!!!」
 悲鳴は不自然に途切れた。
 鏡。鏡だ。それに映るものを見たくない、見られたくない。
 それを差し出すアーサーの顔が痛ましげに歪んでいる。の顔が、恐怖に歪む。

 その手を離したくない。離したくない。
 月の髪、花の咲く庭、夜の青い影のなか、差しのべられた手をとったその時からずっと―――。
 はなさないで。決して、決して。