(月と花の童話) |
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ぽたん、と水の落ちる音が、いたるところで幾つも起こっては暗闇の中に消える。 その闇そのもののような、真黒なローブを目深に被った人影が、ひたひたと忍びよる暗い水際を歩いていた。フードの裾から、ちらちらと金色が見え隠れしては、青黒い水の反射光を、映す。重たい靴音が、胡乱な天井に響いて、水面に細かい波を立てた。 「…くるってるんだ、」 うたうように、喉の奥で人影がわらった。 あいつ、は、くるって、る。ユウ・ア・クレイ、ジィ。 嘲け笑い唄のとるリズム。なのにどうしてそんなに苦いのかしら。小さな声は狭く広い縊路の中を響いて、低く、低く、広がっていった。 ユウア・クレイジィクレイジィイィィ、クレイジイイィィィ、イイィィ―――。 化け物の唸り声に似ている。悪い夢でも見ているようだ。そうさ、実際のところ、すべては悪い夢。どこか遠くで赤い爪が囁く。 狭い道だ、水の匂い。ひたひたと、足元を浚うのは暗闇だ。闇の色は水に薄めると自然青くなるのだなと、人影は感心したように思う。 ここはまるで迷路のように、水路が張り巡らされていて、きっと人が入ることを想定して作られていないのだろうとすら思う。だからこんなに暗く、深く、長く、入り組んで、入ってきたものを迷わせるのだ。 「ガルニエ宮の着工は1862年。その下に隠された下水道が、果たしていつから存在したのか―――?」 明かりも導もない道を、人影は迷いを知らぬように歩く。手には古びて曇った鏡。それは周囲の景色を映すことはないが、彼に道を示す。 「ずいぶん豪華なフェイクだ。」 くつり、と喉の奥で笑う。 ―――まるで悪役ね。 耳の奥で彼の悪魔がうっとりと囁く。そうとも、悪役だ、そうでもしなけりゃやってられない。自分すらも、騙すのさ。そうしてまるで神様か執行人のようにさ、鍵を鳴らすんだよ。真っ青な暗闇の中、まるで墓場だ。ここは墓場、水が流れついて、そうして凍えて果てるところ。 人影がフードを背中へ落とすと、翠の目、続いて金の髪が覗いた。意志の強そうな眼差し。それは断固たる決心に、堅く鋭く研ぎ澄まされている。 水路、縊路、迷路。続く道を、墓場の道を、暗い暗い、奈落の底へ降りる道。この道を敷いた男の願いを嘲笑って。 そのつま先で蹴り崩す。 水音がする。 花の都を流れる水がすべて、一点に集まって落ち込む場所がある。 水の落ちる音がする。 この狭い道を進んで、あの角を曲がればすぐに。 青い光が揺れているのが見える。 きっとあの男も何度か、ここをこうして、人目を避けて通ったろう。己の罪を見るために。それをだれかが亡霊だといって、誰かが怪人だと言った。そうしてこの水路は、暗くおぞましい噂に閉ざされて。 「行こうぜ、アーサー。」 とっくの昔に、ファントムも待ちくたびれている。 自分で自分にそう呟いて、噫、分かっているとも、全部強がりのこけおどし。本当なら踵を返して、走って帰ってあの美しい庭へ駈け込んで許しを請いたい。少女はきっと、泣いている。ごめん、ごめんな、でも、おれ。 狭い道が、天井を広げる。 いっぽ。 たかい、ひろい。 真っ青な、 闇。 「…、」 ―――くるってるんだ。 男の悲しい囁き、諦めを含んだ笑い声が蘇る。 わかっていても、どうにもならない。もう手遅れだ、もうどうしようもないんだよ、とその目が言っていた。だからどうか放っておいてくれ。壊さないから教えてくれ?馬鹿な、お前は壊す、きっと壊す。だからどうか、馬鹿な奴だとわらって放っておいてくれ。 そう訴えていた薄い星明かりの瞳。 狂っていても、間違っていても、どんなにおぞましく残酷で醜く恐ろしい行為であっても―――耐えられない。耐えられないんだ、がいなくなる。それだけのことが。 高い天井に、男の呻きと叫びが残っている。悔恨と懺悔と歓喜と狂気と慟哭と。これだけ多くの感情を一時に挙げる声を聞いたことがない。耳を塞ぎたいようにアーサーは思い、しかし金縛りに会ったようにその手が耳へ動くことはなかった。 長い永い時の流れの中、たったひとりを見つけたと思いこんだなら―――。 いつか俺も、そうやって狂う? 問いばかりがどこか遠くで明滅している。俺は決してそうはならないと言い放つ王の剣と、そうなる時が訪れて俺は裸足で耐えられるだろうかと言う不安なむき出しの少年と、俺ももはや狂っているよと悪魔の腕の中で囁く知らない誰か。 いつか。 思考だけが意識の表層の下、目まぐるしく動き、しかしその表情は、凍りついたかのように無感動な険しい無表情のまま。 水が落ちくぼんでいるホールの中心。 はいた。 いつか遠くのダンスホールを模した、伽藍の天井。黒と灰色の石を積み上げて造られた円形の空間。八方から流れこむ水は、まあるくその部屋いっぱいに落ち込んでいる。深い水は水槽のように、水面が揺れて、青い光の乱反射。 アーサーはそのつま先を、深い水の上に下ろした。しかしその体が、沈むことはない。 水はかかとの当たりで止まり、その下に氷の層がある。水の上を歩くような錯覚をする。足の裏は堅い。これは氷だと、冷静に見下ろしてアーサーは思う。そのままためらうことなどないように、ゆっくりと部屋の中心へ、鏡の上を渡ってゆく。足を下ろす度に、波紋が広がって砕ける。 カツン、カツン。 その足音はなんの音だろう。なんのタイムリミットを告げる音だ? 水の流れる音がする。 この水はどのくらい深く、この氷はどのくらい分厚く、この部屋の床はどれくらい低いところにあるのだろう。 足音が止まる。 「…くるってる。」 それは誰のこと? 少女の声がかわいたなみだを含んで囁く。 かわれないことだけをゆるして、どうぞはなさないで。 離さないよすべて許すよどうぞ変わらないでと返してその小さな手をとったのは男の寂しい狂気に違いない。それでもそれを愛と呼ぶなら、世界はなんて、さびしくて。 がいる。 真っ青な水と氷の下、ゆらゆらと髪を広げて、白い花のドレス、黒い髪、目蓋は閉ざして手のひらを死者のするように小さなお腹の上に重ねて、美しい少女が眠っている。 |