(月と花の童話) |
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足の下。 氷と水の乱反射は、透明な硝子だとか鏡だとかに似ていた。ずっとずっと下の方に眠っている少女を見下ろして、アーサーは茫然としている。 鏡に映った景色を見た。 だから知っていた。しかし現実にその光景を目の前にして、なんて、うつくしいのだろう。は完全に冷凍されている。綺麗な、なにひとつ損傷も腐食もなく、眠っているだけだ。そう思われた。厚い氷と冷たい水に閉ざされて、ただ眠っている。覚めることのない眠りだ。いいや、覚めたらおしまいの魔法だ。氷の女王が使う魔法。あの紅蓮の悪魔もつかえるとは知らなかった。 ―――噫、どうすればいいのか。 だって氷はこんなに厚く、水はこんなにも透き通って冷たく、暗闇は青い、眠る少女は美しい。おかしいはずだ。こんなのはおかしい。おぞましい、恐ろしい、残酷で、残忍で、惨たらしく、冷酷で、なんて我儘な、醜い、恐ろしい、噫、どうして、どうして。 叫び声と悲鳴と慟哭のずっと奥に、やさしい囁きが聴こえる? パシャンと音を立てて、アーサーが膝をついた。冷たい。 「…、」 かわいそうに。かわいそうになあ、こんなに冷たい、暗い氷の中にいて。なのにどうして、そんなにこうふくそうな寝顔をしている?なんて安らかな、かお、しているんだ? ―――おしえてほしい。 どんな夢を見ている? 尋ねてから笑えてしまう。その夢の中身など、とっくの昔に知っていた。アーサーがともに遊んだのは、少女の夢。実体の伴わない幻。限りなく現実に近い、薄寒い夢の影。少女の夢は覚めない現実の夢を見ている。月の髪、星の目をした男と、花のなかただ傍らに寄り添って笑いあう夢を。 その夢を見たことがある。 あんまりうつくしくて、不安になるほど優しかった。 ふいに空気の動く気配がして、アーサーの頬を長いローブが風を切る音が掠めた。慌てた足音。それはすぐさま、氷の部屋に飛び込んでくる。 「!」 怒っているのか、焦っているのか、恐れているのか。 飛び込んできた男の表情はどれでもなかった。そのどれもであるようにも思えたが、どれにも当てはまらないようにも思える。 「から離れろ!」 そうか、それは、を案じている顔か。 がアーサーの手によって損なわれることを恐れているのだ。それはもちろん、彼自身のため。少女なくして生きていけないと彼の目が言う。かつて美しい星の目であったのに。その寂しく光る悲しい青は、もはや鬼の目だ。悲しい化け物の目だ。遥かな時の彼方を彷徨う、鬼の目玉。 「フランシス、おま 「わかってる!わかってるんだ!こんなのは狂ってる!の生を!侮辱する最低な行為だ!間違ってる!ぜんぶ偽りだ!んなこたあ最初っから知ってるさ!!」 この男がこんなにも髪を振り乱して、なりふり構わず喚く姿を初めて見た。 いつだってこの男は、優雅に、明るく、軽やかに振舞っていた。これがフランシスだと、アーサーは思った。これがこの男の、本質だ。くるっているのにうつくしい。ざんこくなのにやさしい。みにくいのにきれい。つめたいのにあつい。いとおしいのににくらしい。ねじまがっているのにまっすぐだ。 こうふくなのにふしあわせ。 ―――あら、人生なんて、そんなものでしょう? 遠くで真っ赤な女の笑う声に、アーサーの右目からしずくが垂れた。 「他にどうすればよかった!?は人間だ、人間なんだ…!」 絞り出すような声音。それはいつか、アーサーの咽喉から出るのと同じ響きかもしれない。 「人間は死んでしまう!」 「…俺たちだって死ぬよ。」 「人間と俺たちの生きる時の流れは違いすぎる!」 「…違う生き物だから。」 「俺は諦められない!」 「…認められないだけだ。」 「みとめない!」 「…認めたくないんだ。」 「……そうだ。」 絶叫がふいに止む。 ふらふらと、疲れたようにフランシスがその場に座り込んだ。くたびれた顔にかかる金の髪と青い光と影が、うつくしいと思った。 「どうして俺は人間に生まれなかったろう、」 それは本当に純粋に、不思議がっているような響きがあって、今度こそアーサーはぞっとした。 「どうしては国じゃなかったろう。」 うめき声はほとんど滲んで掠れていた。 伏せられたフランシスの目から、涙がしとどなく溢れている。それは氷の表面を覆う水に混じって、しかし氷を溶かしもしない。きっと触れれば火傷するほど熱い涙だろうに、氷はあまりに厚く、水はあまりに冷たく流れ、留まることを知らなかった。 「お前の時を、とめたかった。」 男の無骨な指が、氷越しに少女の髪を撫ぜた。手の届かない、氷のずっとずっと下にあるのに、その指先が黒い髪に触れる様が見えるようで、アーサーは目を丸くする。 「おまえをあいし、あいされたかった。俺の生命が続く限り…いいや、もっと短くても構わない。それでも人の一生よりは、ながく、もっとながく。できうる限り、ずっと、傍にとどめおきたかった。」 これは懺悔ではない。直感的にアーサーは思った。この男は、涙を流し声を絞りながらも、なお少女に愛を告げようとしているだけなのだ。届かないと、知っているくせに。声も指先もぬくもりも届かぬ、氷の下に閉じ込めたのは自分のくせして。 どうしてそう、糾弾する言葉が咽喉からでないのだろう。どうしてその真っ白な剣を抜いて、その喉元につきつけてやらないのだろう。 アーサーはただ、フランシスとみている。 水音。 「おまえの時をとめて―――おまえをひとりじめしたかった。」 哀れな化け物が、その白い額を氷に押しつける。少女の肩にそうするのとおんなじように。低い声は掠れて、それでもあまく、やさしかった。 「…これしか他に法がなかった。」 「悪魔に魂を売ってか?」 「…魂なんて、売っちゃいないさ。」 俺の、国の魂は、俺だけのものではない。この魂は、国の、そこに生きる人間すべてのものだ。氷の上に伏したまま、男が笑う。ムスリムの敬虔な修道者がするように、その額をあげることはない。俺は、俺たちは、その魂すら、自分の自由になんてできないよ、と言ってわらう。 どんな顔をしているのだろう。 未だ氷の上に座ったままのアーサーにも、その顔は見えなかった。流れる水に映る像は、歪んでいて鏡の代わりにするにはあまりに朧だ。口元だけ笑っている。目は見開かれて、涙が流れている。歯は食いしばられている。眉は怒るように寄せられて―――見えずともその顔が、分かる気がしてアーサーは目を伏せる。目を伏せたら眠る少女が目に入って、目蓋を閉じた。 「俺が悪魔にやったのは、」 少し顔をあげて、フランシスが微笑む。もちろんそのまなざしは、に向けられたままだ。額にかかった髪を払うように、親指が氷をぬぐって、そこに口をつける。 「―――の時間だ。」 言葉が過去を伴ってきた。 アーサーの目に、まだ少年と青年の境であったころの、フランシスが見える。その胸に真っ白な腕を回す、悪魔の女が見える。 ―――俺のもってるものならなんでもやる。 ―――そんなものいらないわ。 おもしろくもなんともないもの、と女の真っ赤な唇が弧を描く。 ―――あなたの一等大事なあの子の、たいせつなものを頂戴。いつかあなたが自分の馬鹿さ加減に恐れ慄いて、後悔して取り消そうとしても、その時にはすでに完膚なきまでに手遅れなものを。 そうして少女の、時は止まった。 それでも差し出したのか―――愕然としかけたアーサーの思考に、冷静な手が伸びる。ああ、そうか、その背を押したのは少女自身か。少女はきっと、まっすぐなその瞳で、告げたに違いない。あいしていると告げる代わりにただ、あげる、と。 あげるわ、フランシス。あなたに。ぜんぶ。 男が泣いている。笑っている。こわれている。それでも悲しくなるほど正常だ。自らの欠陥も過ちも異常もすべてわかっている。 氷上に蹲る男の姿は、闇のもつれた大きな梟の形に見えた。 |