(月と花の童話)

 もうこんなことは止めようと、蹲る男を見下ろしながら、どうしてもそのとき咽喉が鳴らなかった。
 ひどい夢でも見ているような気分だ。しかしこれが夢でないことなど、誰より自分が知っている。足首の横を流れる青い水の冷たさときたら!

 帰った彼に氷のように少女は青ざめた頬で 「見たのね、」 とだけ言った。
「見た。」
 彼は答えた。
「どうするの?」
「…どうすればいいのか、なにをするのがいいのかわからないんだ。どうやったらおまえたちをらくにしてやれるんだろう。」
「なにもしないことよ、アーサー。」
 会話は密やかだった。真っ青な少女の声だけが、神に縋る老女のような哀れっぽい真剣な響きを帯びた。同時にその様は、路地裏で小銭を強請る子供のような、なんだか安っぽいお手軽な悲劇にも似ていた。
「アーサー、お願いよ。私たちを放っておいて。」
「それでお前は救われるのか?」
 少女は微笑する。壮絶な微笑する。
「救われたいなんて、願ったことは一度もないわ。」
 ―――ただあの人と共にあることがこうふく。

 救おうなどと思うことこそおこがましく傲慢で、それでもやはりそのこうふくにはいびつな違和感しかなかった。
 それを承知でそれでもそう囁いた少女の服は、彼が口を開けず思考に沈んでいる間に、華美なドレスから一度ギリシャ風のシルエットに変わり、再び豪奢なドレスを経て、やがてシンプルに複雑化した。ただそのサイズだけが変わらなかった。少女が成長しないものだからだ。時だけが無言で彼女を通り過ぎた。小さな彼女など、時の翁には見えやしないというように。あるいは時の翁すらも、その少女の形をしたあさましい恋情に囚われた塊を避けて通るように。
 少女はもはや自らの内側にある時間を失い尽くしていた。
 すっかり使い尽くして底が尽き、負債ばかりが増えていた。しかし見た目にはなにひとつ変わらないものだから、そのことに気づいていたのは少女自身と、他とは少し異なる物を見る目を持った一部の存在だけだったろう。
 少女がワンピースを着るような時間軸に辿り着いたところで、大きな戦争があった。小競り合いなら今まで幾度もあったがその比ではなかった。アーサーはしばらく少女に会わなかった。会えなかった。
 大きな戦いが終わって、彼が少女に会った時、彼女は細い足をズボンにくるんだ少年のような格好で、それでもやはり女神のように、ぞっとするほど美しかった。

「久しぶりね、アーサー。」

 ほんの三十年と少しの間であらゆる暴力が振るわれ尽くした。その戦禍を潜りぬけてなお、少女はあの、とおいヴェルサイユのばらの庭園に立つのと変わらぬ気品と空気とを纏って不思議に微笑する。やはりこれはもう地上のものではないと、彼は確信をする。
 謎解きは二百年も前に極東の魔鏡を用いてとっくの昔に終わっている。手品の種明かしは終わった。名探偵の推理は終わった。なのに舞台の幕は下りない。役者がそれを望まない。鏡の持ち主は時を経て変質してすらいる。もはやあの黒い髪と目の魔法使いは、魔法を忘れ、一度目の彼との出会いも忘れた。だのにいつまでもいつまでも、続けていようよと病的な微笑して、踊り続けている。少年はとっくに青年の形を得て、それでも幕をひく呪文がわからない。踊り続けている。美しい男と美しい少女、裸足のまま、手に手をとって、赤い靴も履かずに。
 ちょん切る足がどこにもない。
 彼の手に斧も鉞も鎌もなかった。剣は破邪のためだけに振るわれるものだった。それを振りかざすには、彼は男にも少女にも親しみを持ち過ぎていた。

「久しぶりだな、。」

 無事だったのか、と少し眉を片方意地悪そうにあげたアーサーに、少女はぷうっと頬を膨らませた。少女は上品そうな黒いワンピースに靴を履いて、会議の行われている広間の外、来客用のソファに持たれて退屈そうにしていた。
「あら!残念そうね!」
「そんなことないさ!」
 おどけて両手を上げる彼に、少女が詰めよる。その背は彼の腰ほどまでしかなく、出会ったころ、ほんの少し見下ろしただけのところにあった顔がずいぶん遠いことに彼はそおっと眉を顰める。彼はもう成人した男の形をしているというのに。

!!」

 いつか花の庭で、少年であった彼と、少女のままの少女の間に割って入ったのと同じ声がした。あの頃より低く、がっしりとして伸びやかな声ざま。
「フランシス!」
 変わらず少女は、ぱっと顔を輝かせて振り返る。そうして走ってきた人影が、さっと小さな彼女をたくましい腕で掬い上げる。
 よく知った男。年月を経てなおも美しい、男。
「よう、金色けむ…アーサーじゃないか。」
「…お前今わざと言いなおしただろう。」
「気にすんなってことだ!」
 陽気そうに笑って、なに?飯でも食っていく?と年長者らしく朗らかに片目を瞑る。くすくすと笑いながら、少女に頬ずりをしている様は、もう父娘のようにすら見えた。しかし決定的に違うのだ。男の眼差しは燃えるように熱い。それでもやましい部分などなにもないと言わんばかりに、この男はいつも輝きに満ちて堂々と少女を抱いていた。
「…めずらしいな、お前がを会議に連れてくるなんて。」
「いっつも面倒見てくれる子がちょっと急用でね。それにが久しぶりにアーサーにもあいたいって言うもんだから。」
 だからこそだろうか、そこに落ちる影が暗く大きいのは。
 あえて二人は、二百年も前、あの地下水路での出来事を話題に出しはしなかった。しかし普段と変わらぬ会話を交わすふとした瞬間の根底には、やはりあの真っ青なシーンが横たわっていたが、二人は見ないふりをした。一人は見られたくなかったのだし、ひとりはこれからの身の振り方も唱えるべき呪文もその方法も掴みあぐねていたからだ。それは一方にとっては都合がよいながらもなんとも落ち着かぬ気持がしたものだろうし、いっぽうはただそのもどかしさと自らの無力さとそれからなにもしないほうがいいのではないかという呵責とにさいなまれるばかりだった。奇妙な間が、三人の間にいつも、見えぬながらも横たわっている。
 彼にはまだわからない。
 どうすればいいのか。
 違和感もねじれも、大きくなる様が彼の緑の目には見えた。男の星のひとみは、魔法を写さないから、気づかないのだ。
「フランシス、私今日はお魚がいいな!」
 笑っている少女の存在など、今強い風が吹いたらパキンと折れてしまいそうに擦り減っているじゃないか。

 なのにこうして手を拱いて。
 それが彼らのこうふくだから?
 よくわからない。それはほんとうに、彼らの、"友の"、ための行いだろうか?沈黙はいつでも利口だ。だがそれだけだ。

 幾ら待っても哀れを垂れてくれる善の精は現れない。
 それを彼は誰より知っていた。この世にいるのは人間と、善にも悪にもなれる魔法使い、そんな概念の外にいる妖精たちと、それから後は、純粋な邪悪。それだけだ。リラの精などどこにもいない。

「…あれ、」

 ふいに硬質な、低くはあるがまだ浅い青年期の声が飛びこむ。
 真っ白な金髪は雪のように光に透けてほのかに青い。その不思議な青みがかったアメジストの瞳が、じっと少女を見つめている。廊下のずいぶん向こうからなのに、その存在感が吐息のかかるほど近い。
「フランシス、おめ、」
 沈黙の中に潜む不思議な気配に、フランシスが 「なに?」 と尋ねながら緊張しているのが彼にも分かる。ああ、これは魔法の気配だ。ふいに彼のエメラルドの瞳からぼたりと涙が落ちる。ほんのひとつぶ、たったひとつぶ。けれどそれは、世界を変えるだろう。
 なんということはない予言。
 そうだ、今必要なのは善なる精霊でも神の手でもおせっかいな介入でもない。
 たったひとこと、赤の他人の発する無遠慮で無邪気な真実、それだけで事足りる。

「なっとしたんだ、そン娘。消えかかってるでねぇが。」

 すとんと男の腕から力が抜ける。少女を支えていた強い腕が、呆けたようにその機能を果たさなくなる。首にしがみついていられなくなった少女がゆっくり、地面につま先を付ける。彼の顔が蒼褪め、口端が戦慄く。少女のその無表情。
 ひとつぶの涙は空気に解けて消えた。
 誰も気づくことはない。