(月と花の童話)

「契約違反だ!!」
 半狂乱で男が暖炉に縋りついている。
 かつてその赤い女は、やはりその炎の中から現れたからだ。柱時計が一時を打つ。月光色をした彼の髪が振り乱され、その星の目は見開かれ過ぎて恐ろしい形相をしている。
 少女はぐったりと、部屋の隅のベッドに横たわってぴくりとも動かない。眠っている。眠っているだけだ。しかしどうしてこんなに不安になるのだろう。
「話がちがう!」
 まだ火の燻る暖炉は熱い。それでも男は素手でその煉瓦に齧りついた。常の彼を知るものなら、ぎょっとするに違いない光景だ。男は荒々しくささくれだって、もはや一片の優雅さだって残してはいなかった。戦の最中ですら、髪や服の襟もとの形を気にするこの男が。
 その叫びに応えるものはない。
 部屋の壁に、彼の影だけが大きく黒く伸びている。炎の動きに合わせて伸び縮みするそれは、どこかもがき苦しむ熊のようにも見える。
「出てこい!!!」
 置き火がパチンと跳ねる。
 ルビーを鋳熔かしたような色の木炭。
 ボオン、と鐘の音。

『あら、』

 腹立たしいほどに艶めかしい女の声。
『ご機嫌斜めね、フランシス。オルヴォワ?』
「話が違う!」
 振り返りざまにバンと壁を叩く男の力の強いこと。しかし女はビクリともせず、いっそのこと愉快そうにそれを眺めているのだ。美しい紅玉石の瞳が、三日月の形に撓む。おかしくってしかたがないわ、とその輝きが囁く。
『なんのことかしら?』
「とぼけるな!」
『…とぼけてなんて、いないわ。』
 ねえ私も暇じゃあないのよ、弟に言い含めるような口調が、彼の癇に障る。
のことだ。」
『お嬢さんがどうかして?』
 相変わらずかあいらしいこと。くわ、と小さく欠伸をしながら、女が首を傾げた。真っ白な首と大きく開いた胸元の線、胸の谷間。あらゆる要素が癪にしか触らない女だと彼は冷淡に考える。

「…消えかけてると言われた。」

 否定してほしいという願望がその声音ににじみ出たことに、男はなにより自分自身で苛立った。
 ―――消えかかってるでねぇが。
 ―――え?
 ―――アーサー、おめ、気づかねがったか?
 その時のアーサーの顔。あの顔だ。彼は泣いていた。ずっと知っていたと言って。何度も言ったじゃないか、おかしいって、こうなることなんて、目に見えて、でも、お前は、聞かなかったろう?言葉がなくてもそれが通じた。は白い頬のまま彼と顔を合わせようとはしなかった。どういうことだと思わず声を荒げた彼に、少女は少女らしからぬ穏やかさで答える。
「…仕方がないのよ、フランシス。」
 私、知っていたわ、と。
 気づいていなかったのは彼ばかりだった。ずっとこの少女が共にいると、いられるものだと思い込んで、彼のその目に映る美しい時間に心酔していた。

 そんなこと、と悪魔が再び欠伸をする。
『当たり前じゃない。そんなこと。』
 気付かなかったの?と憐れむように見下ろされて、彼の頭に血が逆流する。
「お前は言ったはずだ!!の時を止めると!!!」
『言ったわ。そうしてあの子の、時を止めてあげたじゃない。』
 いったい何が不満なのと彼女が首を傾げる。深紅の髪がゆるゆると波打って腰元まで流れている。ドレスの深いスリットから覗く太ももの白さが、まがい物めいて美し過ぎた。
「ならなぜが消えかけているんだ!!」
 今度こそ女は、憐れみも侮蔑も隠しはしなかった。
『お馬鹿さんなのね、フランシス。』
 その母親のような声音が、一等癇に触った。

『時を止めることは、永遠に生きることではないわ。』

 考えてもごらんなさいよ、フランシス。噫なんて癪に障る声だろう、ああなんて、なんて愚かな。
『この世のありとあらゆる事象は、時の影響を受けるのよ。彼岸にある私たちですら、流れる時に影響を受ける。血管に血が通って初めて体が動くように、その魂に時が流れて初めて生命が機能するのよ。それをあなたは堰き止めた。の魂に内包された時間は、私が貰い受けた。あの子はあの時から空っぽなのよ。』
 最後まで言い終わるか終わらないかの内に、フランシスが意味のない咆哮を上げて女に掴みかかった。細い手頸に男の手のひらが食い込んで、細い体が壁に打ち付けられる。しかし痛みに苦しんだのは彼女ではなかった。
 フランシスがうめき声を上げて、その手を話す。
 焼けただれたように皮膚が発熱していた。肉の焦げる匂い。
 痛い、と詰まらないものを見る目で、女が言った。煌々とその角が、暖炉の燃えさしのように赤く発光している。
『人の身が空っぽの体で、信じられないほど長く持ったほうよ。お嬢さんの意志の強さに感謝することね。』
 くるりと身をひるがえして、女が少女を覗きこんだ。ほんとうにかあいらしいこと。おかげでずいぶんと愉しめた。この部屋に満ちる陰鬱で沈痛な彼の憤怒は、それは彼女の肌に心地よい。
 美しい指先で、そっと額にかかった髪の毛を払ってやると、かすかに少女が眉をしかめた。かあいいったら。くすりとわらう隣を、哀れな男が通り過ぎて護るように少女を抱き上げると女から引き離す。
 馬鹿ね、その子を損ない続けたのはあなたなのにいまさら何から護ると言うの?
 ゾクゾクするほどたのしいわ。女の口端が持ち上がる。
 けれどももはや飽いた。もうまもなく少女も消える。最後の男の絶望だけ、デザートに取っておけばいい。メインデッシュはここからだ。

「契約違反だ!」
『いいえ、あなたはこの子の時を止めてとしか言わなかった。』
「…!」
 男の目が、見開かれる。美しい星の色した瞳だ。くりぬいてピアスにでもしたらきれいだろうと女が小さく舌を出して唇を舐める。さあ、その口で、紡いで御覧なさい。最高の気分だった。長いことまって育て上げた種が、大輪の花を咲かせようとしている。それをつま先で踏みつぶしてその悲鳴を飲み干すほど、甘美なこともない。
 さあ、待ちきれないように女が咽喉の奥で囁く。瞳だけは蔑むように、男を見ている。

「……を永遠に生かしてくれ!!」

 噫。
 女は隠しきれない恍惚の表情を浮かべた。期待を裏切らない、愚かな男だ。
「いや、永遠でなくてもいい、を助けてくれ!消させないで!」
 金の髪を振り乱し、恥も外聞も何もなく、男が少女を抱いて懇願している。なんて光景だろう。男のやつれた顔も、恐怖に慄く瞳も、それでもと一縷の可能性を悪魔と知りながら縋るその狂気も、すべてなんと甘いのだろう。

『いやぁよ。』

 女はそれらの嘆願を、つま先でかるぅく叩き返した。
「俺の持っているものならなんでもやる!」
『いらないわ。』
 だって今からとってもおいしい絶望が食べられるっていうのに。ペロリと女はもう一度舌舐めずりをする。男はそれを気味の悪い物をみるように眺めた。
『もう無理だわ。…もう遅い。』
 美しい指の先で、少女を指差す。本来ならとっくに、灰塵と化しているはずの身だ。
『その子の時は使い古されて、一滴だって残っちゃいないわ。本当ならとっくの昔に、腐って朽ちて塵芥になっているはずの器よ。』
「…俺のをやる!!」
『お前は"国"でしょう?お前の自由になる時なんて、一秒だってありはしないわ。お前はその体以外、なにも持たないじゃないの。』
「なら俺をやる!!!」
『いらない。』
 嘲るように、女がわらった。

『どうやっても、無理よ。徹頭徹尾、もう遅いの。』

 最初からね、とは付けくわえずに女は述べた。男が愕然として黙る。沈黙する。その目から、口から、耳から、指先から、真っ暗な絶望が滲み出る。噫なんて美味しいのかしら。
 少女の内側の時間は、それはおいしい甘露だった。食前酒には丁度よい具合。こんなに腹が満たされるのは久しぶりだ。
『でもかあいそうだから、時を止める呪いを解いてあげましょうか?』
「…とけるの?」
『もちろんよ、かあいいフランシス。』
 子供のような口ぶりで、聖母に縋るように顔を上げた彼に悪魔はますます笑みを深くした。甘い甘い囁きで、女が彼に口を寄せる。噫なんて愚かでなんて哀れ!救いようのない愛の虜。

『では代わりに―― 「去れ、悪魔!!!」

 ごう、と真っ青な光が、空間を貫いて走った。舌打ちをひとつして、女の姿が掻き消える。
「…アーサー…?」
 中世の剣を手に、肩で息をする男が立っていた。見たことのない剣だった。何度か剣を交えたとき、そのような剣を彼が使っていた覚えはない。柄まで一緒に作られていて、質素な剣だ。しかしその存在感と、輝く刀身の青が目を引いた。アーサーがじっと彼を見下ろしていた。
 その緑の目が、ふいにフランシスに明るい日向を思い起こさせた。先ほどまでとは違う種類の涙がこぼれる。
「…間に会ってよかった。」
 静かな緑の眼差しが、彼に注がれている。赤い女の残したまとわりつくような気配が、薄れてゆく。
「解けば最後、の体はあっという間に有るべき姿に…滅びる。」
 ポカンと口を開いてそれからうなだれた彼に、アーサーが言葉を続ける。
「どうあがいても、同じことだ、フランシス。とくにあの化け物の手をこれ以上加えるんなら、お前はもっと、苦しむことになる。」
 正しい者が告げる言葉は、やはりいつの世も苦い。