(月と花の童話)


 青年の眼差しから毀れる緑の明るい光から逃れるように、部屋を出て、どこをどう歩いたものだろう。やがて夜が更けて、空が明るくなった頃、精も魂も疲れ果てて、それでも彼はかえって来た。
 ひどい顔をしている。
 部屋の中はしんとしていて、アーサーは帰ったようだ。ほっとしているような、どうでもいいような、ぜつぼうしているような、自分をフランシスは無視してほつれた髪を掻き上げる。
 が起き出すより前に、顔を洗って、それから朝食を作って―――そうだ、を学校に送り出さなくては。なにせ彼女は見た目だけは子供だから、学校に通わせないことには周りがうるさい。煩わしい世の中になったものだなと思いながら、彼は片手でトースターにパンをセットする。噫なんて便利な世の中。
 噫なんて、
「…なんで、」
 涙が出るのだろう。
 もう枯れたと思ったから帰ってきたのに。
 キッチンのシンクに、パタリ、パタリと涙が降る。噫こんなに便利な世の中になった。こんなに煩わしい世になった。こんなに平和な、こんなに怠惰な、こんなに穏やかな、こんなにうるさい、こんなに広く、こんなに狭い、こんなに遠い、世になった。幾時代かがあって、大きな戦争や、大きな憎しみ、悲しみが過ぎた。
 彼が初めてと出会ったのは、山のお城の晩餐会。
 もう遠い遠い昔のこと。とっくに朝日に見えなくなった、をちの星ほど遠いこと。目を瞑ると、その裏側にぼんやりと浮かんでくる景色がある。
 シャンデリアは星を散りばめて、ドレスの花が回廊の至る所に咲き乱れていた。美しい装いの、美しい男女が、あちらこちらではなやかな笑い声をさざめかせ、吹き抜けのホールはまるで、楽園の温室のような色と花の洪水。丸天井の天使が、つられて降りてくるのではないかしらと、そんなこと考えているような、感心しきったような呆れたような顔をして、小間使いの少年がその天井を見上げていた。彼はまだ若く、ほとんど少年期を脱しかけた頃の姿をしていて、自らの美しさを知りつくし、また退屈してもいた。その惰性を持て余して、抜け出した庭に面した長い夜の回廊に、はいたのだ。
 夜の片隅に、咲いていた小さなちいさな花。それはまだつぼみで、しかし見るからに美しく、彼は生れて初めて、自分と同等、あるいはそれ以上に美しい人間を見たと思った。彼は自惚れていた。彼は暇を持て余していた。彼は孤独だった。彼は傲慢だった。彼は無邪気だった。彼はすべてを見下していた。彼はすべてを羨んでいた。
 彼は自分だけのものが欲しかった。
 そうして少女に手を差し伸べて―――少女はその手を取った。ふたりは音の波の間を、くるくると星のように、花のように、美しく踊った。
 それが最初だった。
 まだそのころは、人々は豪奢なドレスを着て、王族や貴族が世の中を支配していた。女性はコルセットで腰をぎゅうぎゅうと締めあげてなお足りぬと言った風情で、男性はみな鬘をつけていた。宮廷の文化、煌びやかに華やかでありながら陰謀や策略にも満ちた陰惨な時代だ。美しい女がその微笑の裏でおぞましいほどの知略を廻らせているように、時代もまたその二面性を顕著にしていた。舞踏会、園遊会、遠乗り―――。時代は一度ギリシャに戻って、それから再びより華美に豪奢になった。そうしてそれから、だんだんと人々の生活に自然界以外の力が作用し始め、石炭が蒸気に、蒸気が電気にとって変わった。剣は銃に、船は飛行機に、あらゆるものが目まぐるしく変化して、それでもは変わらず彼と共にあった。暗い戦争の時代も、変わらぬ花の風情で。
 そうあるように彼が望んで、彼女がそれに応えたからだ。
 そうあるように彼が作り変えて、彼女がそれを受け入れたからだ。
 ああ、いったい、どれだけのながく、は共にいてくれたことだろう?
 その間に過ぎていった、顔も名前すらも思い出せないような大勢の群像が、流しに手をついたままの彼の背後を瞬く間に通り過ぎた。もまた、そのひとりのはずだったのだ。それがなぜ、まだこうして、数百年の時を経てもなお変わらず、ここにいる?
 時を止めた、いいや、止められた、あわれな娘。
 成長するよろこびも知らず、すべての事象に置き去りにされるままに、いつまでも少女の形をして。

『―――もうあれは じゃない。人間でもなければ生き物ですらなく、亡者でも亡霊ですらもない。今のは、この世のどこにもないもので、あの世のどこにもいけないものだ。』

  じゃない?
  じゃないならなんだと言うのだ。確かにあれはだ。彼の見つけた美しい花。そのつぼみ。咲くことは永遠にない―――咲く前に彼が手折った。そのまま氷漬けにして、その色だけ幻燈のようにして楽しんでいるから。もうは成長しない。
『美しくなるぞう!』
 そう自分の娘でもあるまいに、ほくほくとうれしそうに言ったのは誰だったっけ?
 それを聞いておもしろくないと思った。
 大人になんてならなくていいじゃない。そのまま、少女のまま、愛も恋も知ることなく、幼いまま俺を愛して、そのままずっと、俺の傍にいればいいじゃない。
 そう思ったのは誰だ?
 誰よりもだれよりも、少女が成長すれば美しい花を咲かせると知っていたくせに?
 知っていたから摘んだのだ。咲かないように。そうしてなお枯れないように、氷に付けて細工をした。造花よりもずっと、軽くて脆い氷花をつくった。それは誰だ?手を貸したのは悪魔の女。手を下したのは、他でもない。
 パタリ。

「…フランシス?」

 少しくたびれたような頬で、がキッチンの入口に立っていた。
 呼ぶ声は小さかったが彼の耳に聴こえた。はっと思わず振り返ってしまった彼の目から落ちる涙を認めて、少女はさっと母親のような表情を浮かべる。
「どうしたの、フランシス。」
 おだやかな、痛ましげな、いたわるような声音。
 それがおおよそ少女が発しうる声の響きではないことに、初めて彼は気がつく。
 言葉が出ない。
「アーサーが、来ていたのよね?私、昨日はなんだかずっと眠っていたような気がして、なにも覚えていないのよ。…ねえ、なにかあったの?どこか痛む?」
「…、」
 涙を流しっぱなしにしたまま、彼は子供のように首を横に振った。
 背伸びをした少女が、彼を両手をいっぱいにひろげて抱きしめるとその背中をそおっと叩いた。
「だいじょうぶ、」
 すべてを包括するようなその響き。
「だいじょうぶよ、フランシス。」
 なにもおそれることなどないのだと、そう囁く声音は、少女のなりをしているが、完全に大人のそれだ。過ぎ去った年月は確かに少女の中にもあり、しかしそれはその器に溜まらずにただ通り過ぎてゆく。数百年を経て、魂ばかりが年老いて、肉体だけは、止まったまま。もはやその声は、少女のものでも女性のものでもなく、老婆をずっと超えたところ、黄泉の底から、天国の園から、どこか遠くから聴こえてくる、幻のようなうつろな響きだった。
 彼はぞっとする。
 初めてアーサーの言うことを、実感として理解した気がする。
 抱きしめ返した細い少女の体は、ああ、こんなにあたたかいのに。
 でも彼は知っている。の体は、ここにはない。あの迷宮の地下、水路の底、氷の中に、眠っているのだ。彼がその手で確かに沈めた。ではこれはなんだ。今こうして彼を慰める、優しい小さな塊はなんだ。
 すべてまぼろしだよ、あわれなフランシス。
 誰かが囁く。
 その声音は、幼い頃の自分に似ていた。
 お前は俺が、誰よりこの世でみっともないと思う、愛とやらの亡者になってしまったのかい。
「フランシス?」
 菫の目。優しい色合いは色褪せることはない。そのことこそが異常である。異常であるのだ。
「…、」
「なぁに。」
、」
「?」
 ただひたすらに名前を呼んだ。
 答えなんてとっくの昔、一番最初から知っていたさと目蓋の裏、緑の目に向かって吐き捨てる。