(月と花の童話) |
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現代に蘇った奇跡と言われた少女は、自力で起き上がることすらもできないまま、それでも5年の間生きていた。 彼女を取り巻いた熱狂の渦がやっと冷めだした頃、少女自身の希望によってその身元を生まれ故郷であるフランスに移された。驚くべき柔軟性の高さで、少女は現代社会に馴染んだ。まるで歴史の流れを見てきたかのように、彼女は現代の便利さに驚くこともなく、淡々とそれらを受け入れた。そういった彼女の言動は、時折少女の閉じ込められていた氷の年代を疑わせたが、科学的に見て、彼女の着ていた衣服も、包まれていた氷も、全て800年以上は前のものだという結論は変わらなかった。 血液、体組織、細胞、あらゆるデータを採集され、あらゆる最先端の治療が施されたその後も、使われずに氷点下で死んだ少女の筋肉が再びつながることはなかった。それでも彼女の細胞は分裂し、髪は伸び、その身長も体つきも変わった。ひどく脆くなってしまっていた彼女の体組織は、彼女をベッドから起き上がらせない。常にその腕にたくさんの管を遠し、ほとんどの呼吸を機械に頼った。それでも彼女は、その美しい菫色の瞳を開いた。柔らかな黒髪は、夜の河のように白いシーツに流れた。 月の髪をした男が、毎日彼女の病室に花を届ける。毎日その髪を梳いて、頬にくちをつけた。 呪いによって愛を告げることを禁じられた哀れな怪物は、もはや呪いも魔法も失って、ただその言葉を囁くことしかできることがない。あんなにも伝えたかった言葉は、その言葉のためにすべて呪いすべて捨てすらさせた言葉は、しかしこんなにも無力だった。 ―――噫まったく、興醒めだわ。だから科学だなんだって、ああいうタイプはつまらないのよ。 「生きているのが不思議なんだよ、フランシス。」 アルフレッドの告げた言葉に彼はもう叫びも怒りもしない。あんなに赤く、地を黒く焦がしてその胸の内の焔は燃え叫んでいたのに、もはやすべて燃やし尽くしたかのよう。彼はくたびれて、静かに小さくなってしまった。 「彼女の保存状態は完璧だったよ。それでもやっぱり、時が経ちすぎたんだ。」 フランシスはただ花を運ぶ。病室で成長した少女は、いつも柔らかに微笑んでそれを待った。時折それぞれ異なる種類の緑の目をした男たちが、代わる代わるそこに混じった。騒々しく陽気な笑顔でやってくる男と、朝摘みのばらを抱えて怒ったような照れたような物調面でくる男と。 少女は静かな優しい声で、男たちの相槌に数百年来の友人のように相槌を打つ。 十三で時を止めた少女は、今日、十八になる。 「…、」 呼ばれて娘が、顔を上げた。花の刺繍のレースに隠れて、すみれの目玉は笑ったらしい。ほとんど真っ白の、影の色ばかり淡い花色のドレスは、彼女にとてもよく似合っている。 背中にたくさんの羽毛のクッションを挟んで、なんとか少女は座った姿勢を保っていた。腕にあれらたくさんの色のついたチューブはもうついていない。もうつける意味がないと判断されたあとで、全ての決定は少女自身の意向に委ねられた。 「アル、」 穏やかに小さな声音で呼ばれると、どうしてだろうか、かの大国の彼ですら、自らが幼い子供のような気がした。 「このまま機械に生かされ続けるのと、これらを外して生きるのと、どちらが最後の最後の瞬間まで、あの人にJe t'aimeと言える?」 菫色の瞳。今ではなんとなく、彼にもフランシスがあれだ触れるなと泣き喚いた理由がわかる。そうして静かに告げられた答えに、少女はしずかにほほえんだまま決定を下した。余計な機械をすべて取り払って、彼女はまるで自由だった。 「フランシス、」 小さな声で、が微笑む。 その微笑を視界いっぱいに収めながら、やっぱりフランシスは少し震えるような気がする喉で囁いた。 あいしている。 それだけじゃとてもじゃないが足りないけれど、今、いまだ、今言わなくては。彼女の口端が頬笑みの形に幸福に戦慄く。「あいしてる、」 どこへいくのと尋ねるように、フランシスはそれだけ言った。「あいしてる、」の頬、の髪、の額、おまえの命。今尽きんとしている―――いいや、違う、とっくに尽きていて、引き延ばされ続けてきた彼女の生命が、ほんの一瞬、鳥のような自由を取り戻して、そうして永久に去ってゆく。その頬に触れる。こんなにあたたかいのに。その額を撫でる。こんなにやわらかいのに。どれだけ何度繰り返されても、その言葉が褪せることはなかった。何度も何度も、フランシスが囁く。その声音と吐息でをつつみこんでからめ取ろうとするように。白い雲を吐いて、それでの旅路を塞ぐように。フランシス、と乙女の囁く声。天上の音楽を聴く。真っ白なヴェールの向こう、レースの細かな花模様。「あいしてる、」 何回繰り返しても足りなかった。この千数百年―――伝えることのできなかった言葉は、千回億回繰り返しても足りやしないだろう。なのに許された時間はほんのわずかだ。だから、だから、それ以外の言葉が見つからない。ありがとうとかごめんなとかゆるしてくれとかおいていかないでくれとかどうぞやすらかにとかさよならとかいかないでとか。そんな言葉挟む余地もない。あいしている。 お花のドレスを着て、真っ白なヴェール。 噫は、やっぱりとてもきれい。 大人になったらこの手のひらからすり抜けて、他の誰かのものになる。そう信じていた。その時を恐れていた。けれども美しいこの女性は、変わらないまなざしと声音で彼に、彼だけにあいしていると囁いた。私の世界が終わっても、あなたの世界が長く続くと知っている。それでも、それでも。 「好きよ、フランシス。」 私の世界が終わる、その時までも。 |