ホームには誰もいない。
 閉じるドアを見つめながら、ほんの小さく、くちびるのうえで、ばいばいと言う。答える人はもちろんなく、は電車の壁に深く寄りかかって、真っ青なため息を吐いた。遠くの山の寂しい群青色を眺める。

 車内は空いていて、ほとんど無人だったが、座る気にはなれなかった。
 今座れば、ため息と一緒に体の力すべて抜けてしまうに違いない。そうすれば眠ってしまうことは想像に難しくなく、今彼女はねむりたくはなかった。眠りたくない。眠れば夢を見るだろう。きっと見たくないものを見る。
 見たくない。見たくないものがあった。
 今まさには、それから逃れてきたのだった。

 見たくないから目を塞いだ。目をふさいでも目蓋の裏に、それが浮かんだ。だからいっそ忘れてしまえばいいと思って、気がついたらトランクに荷物を詰めて、電車に乗っていたのだ。目蓋を閉じると「またな」と普段と変わらず手を振るあの人が見える。ぜったいにそう。だからは瞬きすらもしないように、じっと目を開いて暮れかけた群青をした、山の稜線ばかり見ている。


 あの人はいつも別れ際、「またな」と言った。
 明日が変わらず今日の続きだと信じていて、明日も変わらず、そこにがいると、彼は信じきっているのだろう。明日のビジョンをうたがったことなどないのではないかと言うほどに、彼はの存在を確信しきっているのだ。
 最初はそれがうれしかった。
 こんにちは、ありがとう、おやすみ、またね。また。また明日。
 交わす些細な挨拶の、どれをとってもいとおしくって。たいせつに全部押し花にするみたく手帳に挟んでしまっておきたいと思った。ゆびきりをしたこと。桜並木を歩いたこと。手を繋いだこと。少し固い髪の毛を梳かしたこと。互いの額をあわせてわらったこと。毛布のしたの内緒話。夜中の電話。夕立を避けて走ったこと。緑の眼差し、つめたい頬。ちょっと困ったようなわらいかた。ぶきような優しい手。どれもがぜんぶたいせつだ。
 だのに、いけないな、いつからかとてもこわがりになってしまった。さようなら、するのがこわいのではない。そうではない。

 ――いつかおいてゆく。
 それが怖くなった。
 泣き虫なあの人は、きっと泣く。きっと泣くだろう。それこそ目が溶けて落ちてしまうんじゃないかと言うほどに、大泣きに泣くだろう。
 わたしのためにないてくれるの?ありがとう。
 そう言えたらよかった。そんなうつくしい人であれればよかった。せめて大泣きするその人の前で、穏やかに微笑むことができたなら、どんなにかよいだろう。『だいじょうぶ、わたしはとてもしあわせだったわ。』そう言って、その頬に手のひらを添えて、泣くのはおよしなさい、と言えれば。

 その自信もなく、ついにはは逃げてきた。

 いつかの指切りは解けて、繋いでいた手も解けた。いいや、違う。ほどいてきた。
 あの人は、見た目に反して随分と長生きで、いいや、長生きなどというレベルではない。そもそも種族が違う。生命体として、根本的な構造が、存在要素が違った。それでいて、彼はどこまでいっても、21歳の青年でしかないのだ――どこまでいっても。あの国が倒れぬ限り。それは彼そのものであるのだから。
 置いていくのは彼ではない。ある日それに気がついた。おいていくのはこちらの方だ。やわい心のままの優しい彼を、たったのひとりでおいてゆく。

 いてもたってもいられずに、とるものもとりあえず、は電車に乗っていた。
 揺られながら、考える。
 寄り添い続ける勇気があればよかった。
 雨の中傘をさしかけてきてくれた人。
 突き放し別れを告げる優しさがあればよかった。
 泣き虫なあなた。
 別れの歌を口ずさむ。そんなセンチメンタル、浸っていられるほど、彼女はロマンチストではなかった。どちらかといえばリアリストで、いいや、恰好のいい言葉でカテゴライズするのは止めよう。に言わせるならば、彼女ははただの、臆病者だ。優しい彼の優しさからも、ついには目を背けて逃げてきた、自分のことしか考えない臆病な女なのだ。愛に命を賭けるほど、無謀でも勇敢でもなく、生命の限りを受け入れるほど、大きな器も聡明な心も持ち合わせていない。ただの人間、ただの女。
 それすら言い訳にして、すべて置いてきた。自分可愛さに、あの泣き虫をひとりほっぽり出して。