もうすっかり、辺り一面春のにおいでいっぱいだ。
 吸い込めば白い花、ニコチンタールの肺を満たすよ、そうしてきれいに、なれる気がする。日向の影もうらうら照れて、昇る雲雀は空の上。
 蓮華畑なら丘の稜線を笑って埋め尽くした、蒲公英ならとっくに首を刈って丸い輪にして冠に編んだ。爪草なら首飾り、木蓮なら鎖に、捻れた花のマゼンタなら足の下。冠が欲しいなら茨で編むといい。
 今やそこらはあたり一面、春の匂いでいっぱいだ。
 舞う蝶いっぴき摘み上げて飾ろう。揚羽なら髪飾り、瑠璃蜆ならピアス。紋白なら指輪がいい。空は端からほのかな珊瑚と白群の色、真珠の月なら砕いてしまった。
 目を上げて、丘の稜線を眺めれば、浅い春追って一角獣の群がゆく。一度しかあえないなら群緑の泉で待ってて。野ばらの棘なら手のひらの中に。星のきらめきなら木々の下。木漏れ日に紛れて。

 はそっと笑って目蓋を伏せた。
 蔓草なら少女の首に。車前草の葉をくるりと丸めて葉巻にしたら、薺で火を点け煙を蒸かす。どくだみの匂い。紫雲たなびく群青色の、山の頂思いを馳せて、くゆらす煙の行き先も知らず。
 こんなに春はあたたかくって、残酷な気分になるので困るな。
 尖ったつま先の下、土筆なら潰した。足元に広がる犬のふぐりなら簡単に首を落としてしまった。集めて散らして風に乗せよう。青い星、青い星、紋黄蝶なら翅をもいだ。菫なら葉巻に詰めてある。梅なら君ならでと嘯いて手折った、桃なら端から喰らってしまって、桜ならとっくに散らしてしまった。蜻蛉は沈めて、青蛙なら放り投げた。蛇苺は大きく育ち過ぎて一口では飲み込めそうもない。薇は増殖を続けている。瑠璃揚羽なら心と臓の間。日光は磨かれて百色、お月さん転げた湖なら朱鷺色。菜の花ばかり目の覚めるような黄色、山吹は泡の如く水面に流れて。
 あちらこちらで春と浮かれて、ああなんて騒がしい森の中。そこら一面、真っ青な息を吸っては吐いてを繰り返す、ぷかりぷかりと煙を吐いて。
 ここはいつかのお花畑、春です。

「おや、まだ吸っておられるのですか?」

 気遣わしげな声が、ふいに聞こえて、が振り返る。春の只中に、男が立っていた。
「やあ、」
 親しみを込めて、が眉を上げた。
 男の髪は夜の空。銀河の星屑織り交ぜて、日中の中では鴉の濡羽色。大きな眼窩に嵌め込まれた、目玉なら黒曜石。天の川の水底から、高純度の真空掬い上げて圧縮すると出来上がる宝石の色。何か言いたげな顔を、ちょっとわらって見やりながら、はぷかりと煙を吐いた。車前草のタ煙草はしかしどうやらほろ苦い。繁縷をとって、口に入れる。血に似た甘い味。ふふ、と口の中で含むように笑うと、男が少し、眉をしかめた。
「いいじゃないか。もう人の煙草は止めたのだもの。」
「とは言いましても、」

「私の花だよ。菊。」

 不思議な調子でが微笑して、それに菊と呼ばれた男は肩を竦める。好きにしてください、そういう意味に解釈して、または足元の車前草を毟る。今度は芯に、花鶏の翅でも使おうかと、そう考えている。一角獣の鬣では、燃えにくそうだ。ぷかりぷかりと煙を吐いて、の吐いた煙すべて、雲になる。桜と朱鷺の豪奢な羽織を肩に引っ掛けて、は風に吹かれている。その羽織からも花弁が舞った。その様子を菊はじっと袂に手を入れて見ていた。
「なんだい、菊。寒いのか。」
「ええ。まだ、ほんの少しばかり。立春とはいえ、まだ冷えますねえ。」
 そう言って口元に手をやって少し微笑んだ菊と呼ばれた男に、そうかい、と返事を返しながらはちょっと笑って、「相変わらずだねえ。」と言った。そう言いながら、目の前を飛んで行こうとした翡翠色した飛蝗を、さっと手のひらで掴むともろもろと崩して風に乗せる。飛蝗なら風に流して、蟷螂なら鎌をもいで。蜘蛛なら脚を並べて。
 それに菊が、ぽつりと言う。

「…あなたは相変わらずですね。」
「そうかい?」

 笑うように、相槌打って、ぷかりぷかりと煙を燻らす。
「また来たよ。」
「…ようこそいらっしゃいました。」
 その言葉にが笑った。心の底からの笑みに見える。それに菊も、少し眉を下げた。全てが起き出す彼女の季節だ。花は春、空には紫雲も棚引いて。とげとげとした寂しさと、それから残酷な甘やかさと、色とりどりの花々を、敷き詰め散りばめ踏み散らかして、今年もがやってくる。ちょっと菊の頬に手をやって、ふっと微笑む。の目玉。花の色、花の色。移りにけりなと誰かが謡って、ああこんなにも美しい。春の雨ならちょうどいい。春雷なら暇潰し、曙は切り取って井戸に落とす。
 の長い髪がちょうど風に靡いて二人の顔を隠した。ちょっと世界が静かに息を潜めて、再びの春の騒々しさです。またしばらく世話になるからねえと笑うの隣で、ちょっと顔を赤くして、男が俯いていた。



(春と謡えば)