(花を夢む)




 雪は白い、白い。
 山も、木も、林も、野原も、みんな白い。空は不思議と明るい灰色をしていて、そこから雪が、降ってくる。真っ白な光。降り積もるとこんなにも冷たい、かすかに水色をしている。

 あの人はどこに行ったろう。

 こんな寒い中、寒いのは嫌いなくせに。霞む視界に目を凝らす。ますます吹雪は、白くはげしくなるようだ。ぐるりと見回しても、白くぼやけて、すっかり見えない。こちらの方が、先に参ってしまいそう。雪は柔らかくなどはない。ただ冷たく透き通って、ガラスの破片のようだ。ただキラキラと、美しく光るだけ。冷たいばかり。そのくせ積もった地面の雪は、こんなにやわらかに、優しく足を絡めとるので困る。
 ボスリと足を上げて、一歩を踏み出す。帰ろうにも、これでは彼を見つけないことには帰れまい。
 もう一度、吹雪の隙間に目を凝らす。森の端ばかり黒く手招きするように揺れていて――林の傍ら、雪が一カ所だけ不自然に盛り上がっているのを見つける。
 まさか。まさかな。
 大またに雪を踏み分けて、もはや泳ぐようにしてその小さな小さな山に近づく。確かに、あの人くらいのサイズの山ではある――まさかな。かの有名な、氷と雪の下、美しいまま時も呼吸も止めた少女の骸を想像し、嫌な気分になる。

「…――イヴァンさん?」

 もご、と山が、動いた気がした。
「んのバカ!!!」
 分厚い手袋で雪を掻く。ああもうまったくなにをやっているのだろう、馬鹿馬鹿しくって、馬鹿馬鹿しくって―――涙が出そうだ。涙が落ちた先で雪が溶けた。涙は随分あたたかい。今なら何リットルだって涙を流してもきっと許される。思った以上に雪は深く、噫、この人はほんとうに。

「やあ、。」

 助かったよ、とちょっと困ったようにその人が笑った。雪の上に熊がするように蹲って、そのままこちらを見上げているのだ。
「……。」
「あれ、、泣いているの?」
 泣かないで、と伸ばされた手袋はがちがちに冷たくて固い。私の涙もすっかり固まってしまって、ポロポロと頬からはがれた。なにが楽しいのか、きれいだね、と感心したように、うっすらとその人はわらう。氷の色をした目。
「あんた何してるんですか、」
「ちょっとね。」
「ちょっとなんですか。」
怒ってる?」
「怒ってます。」
「ごめんね?」
 あのねえ、と身を乗り出しかけて、でもその人の目がうっすらと濡れているのに気がついた。

「泣いていますか?」

 その問いに、うろうろと目を泳がせた彼を、なおもじっと見つめると、降参と言うように両手を挙げて、彼はようやくかがめていた上体を起こした。
「泣いていました。」
「…正直でよろしい…。」
 なぜです、と尋ねる前に、彼が身を屈めていた地面ばかりが黒く、目に入った。蹲った彼の形をして、その真ん中に、緑。しかしそれは弱弱しい萎びたみどりで、死んでいるのが一目で分かる。
 恐ろしいばかりでつい忘れがちだが、この人は本物の馬鹿であるのだ。

「見つけてすぐにね、なんとかしようとしたんだけれど思いつかなくてね、」
 黙ってしまった私に弁解でもするように、いいや実際そのつもりなのだろう、しどろもどろとその人が喋りだす。「見つけたときは晴れていたんだ、」どうしてそんなに一生懸命、私に話すのだろう、ごめんねなんて思っていないくせに、どうして謝るのだろう。「うれしくなって見てただけだったのだけど、」よくわからない。これは同じ人間の言葉だろうか。噫人間ではない、国だ。しかし同じ生命だ。「いつの間にか吹雪いてきて、」なのにこの人の口から出るのは宇宙人の言葉だ。難解で複雑で怪奇だ。「びっくりしてとっさになにも思いつかなくてね、それで、」何を言っているのだろうこの人は。
「でもダメだったんだ、目の前でどんどんしおれてしまって、」
 この人は。
泣いてるの?」
 あなたは。

「泣かないで。」

「泣いてないです。」
「嘘ついちゃだめだよ。」
「…すみません。」
「謝らなくていいんだよ?」
「……すみません。」
 凍えかけて固まりかけている手のひらで、その人が私の頭を撫ぜた。
 ぽつりと言う。

「…かれちゃった。」
 奪うための手ではなく、守るための手を持ちたかった。そう言う。その手が離れてゆく。冷たい手だ。なのに離れて後が、ひどくさむい。

「イヴァ、」

「………でもだめなんだ。僕のいくところ、あの人はついてくる。花は凍えてしまうね、新しい芽も死んでしまう。」

 蕭蕭として、さみしくて、雪の野原は砂漠に似ている。乾いてさびしい、つめたく凍えて、真夜中の砂漠だ。月明かりに砂は白く、ああそうか、ここは砂漠。その真ん中。だからこんなにもさびしくてさびしくて。
「みいんないなくなってしまうんだよ。」
 なんでかな、彼が少し、諦めたように微笑した。青ざめた頬、早く帰ろう。ほんとうに凍えてしまう。そう思いながら、私はひとつのことに気がついて、そのことについ気を取られた。
 そうか、あなたはひとりぼっちなのか。
 雪の野原で気がついた。
 真っ黒な土の上、この雪さえなければ、どんなに肥沃な大地だろう。この黒々とした色はどうだ、血のようではないか。しかし雪がなければ、もうこの人の土地とはきっといえないだろう。ああさびしいのだね、あなた。砂漠の真ん中にある寂しさに似て、雪の野原はさびしい。
 そして何度も恐れを知らず、重ねて言うが、この人は馬鹿だ。

「帰りますよ。」
「ん?」
「こんなに冷たいじゃあないですか。」
 言いながら己の手から手袋を取る。まったくなんて言う自殺行為だ。空気は刺すように冷たくて、しかしその手で挟みこんだ頬の方がしかし冷たかった。
 その凍った皮膚のした、熱い血がやはり廻っているのだろう。命が廻っている。雪の下で。見えずとも。たしかに。

「帰りますよ。」

 そう、ひとりじゃないのよ。星を撒いてみちをつくるからね。
 いつの間にか吹雪は止んでいる。振り返ると、私の歩いてきた跡に、星の光りが落ちて、そこだけ青い筋になっていた。それを眺めて、やっと立ち上がると、その人は少し笑って、紅茶にウォトカを入れても構わないかとだけ静かに尋ねた。