05.天使の家

 久しぶりに届いた手紙をくしゃくしゃに握って、彼が教会の孤児院へ飛び込んできたのは、夏も終わりのことだった。
 肩で息をして、彼は入口に立っている。出迎えたシスターは、ただ静かに、穏やかに彼を見下ろしていた。

「どういうことなの?俺、なにも聞いていないよ。」
 普段より少し怒った口調で、彼がシスターを見上げた。
 ふいにその目の周りにしわの増えたことに気がついて、しかし見ないふりをする。今はそれどころではない。
 それどころではない?どこか遠くでもう一人の自分が笑うのを、彼は知らないふりをする。それどころじゃないの?あんなに小さくてかわいかったジーナが、その金の髪が白くなりかけてるっていうのに?
 彼は茶色の目で、かつて少女だった女性を見上げる。
のこと、どうして言わなかった?」
「彼女から言うなと言われましたから。」
「言ったよね?あの子は奨励生なんだ。国が出費したのは、俺が同じ孤児院出身の、"フェリシアーノお兄さん"だからじゃない。あの子の教育に投資することが"国"として有益だと教育機関が判定したからだ。」
 知っています、とやはり静かにシスターが囁く。
「けれどあの子の人生です。」
「…そうだよ、決定権はにある。それはもちろんだよ。でもなんだって一言の相談だって…」
 そこで彼の言葉は不自然に途切れた。
 シスターの背中から、ひょっこりとが、やはり罰が悪そうにはにかみながら現れたからだ。
 すらりと伸びた手と足、首。
 一瞬意識が、持っていかれる。
「ごめんなさい、」
 彼女の銀の目が、一寸迷うように揺れた。

「でもね、どうしても私、行かなくちゃ。」

 きっぱりとした言い方だった。
 昔からおとなしい子供だったけれど、妙に潔いところがあった。いつも背筋をぴんと伸ばしていたイメージがある。今もそうだった。は教会の入り口から吹く風に長く伸びた髪を揺らして、まっすぐ彼を見ていた。

、どこ行くの?なぜ行くの。なにしに行くの。」

 半分怒ったように、途方に暮れたように彼が言う。
 がこういう目をして言いだすと、聞かないことはなんとなくわかった。そもそもこうやって、なにか自分のわがままを貫こうと、したことのない子のすることだ。
 その目に浮かぶのは決意だけ。
 いくよ、行くよ。遠く、遠く―――。
 彼の胸ばかりざわめく。
「私、探しに行こうと思ってる…それでずっと世界を見て回りたかった。カメラは好きよ。とっても好きなの。」
「好きだけでやってける仕事じゃないでしょ?」
「あら、昔フェリシアーノお兄さんは、好き、がなきゃだめだよって言いました。」
 減らず口をと忌々しく思う暇もないような、明るい笑顔でが言って、やはり彼は途方に暮れる。
「どうしていくの。」
 怒ったような声が出る。いいや、やっぱり怒っている。そんな大事なこと、どうして一言だって自分に言ってくれなかったろう。やっぱり自分が、泣き虫だから?頼りがない?それとも。
(にんげんじゃないから?)

 の目が、まっすぐほほ笑んでいる。もう決めたの。そう言っている。
「探しにいくのよ。」
「なにを?」

「世界でいちばんうつくしいもの。」

 その時が笑って、彼はなにか、なにか大切なことを思ったような気がしたのだけれど、がどこかへ行ってしまう、そればかりが先走って忘れてしまった。
 微笑するその顔こそが、きっと世界で一番美しかったのに。
 教会の奥で、子供たちのはしゃぐ声がする。フェリシアーノお兄さんがもうすぐ来ることを知っているのだ。もう戸口に立っていることも知らずに。
 むかしむかし、うんと昔。まだこの教会ができたばかりの頃、やはり彼はここで育った。祖父がいなくなってしばらくの間、兄と過ごした、懐かしい、我が家。
 俺の、ちいさな、てんしたち。
 うつむいた彼は、もうなにも言わなかった。
 子供じみてる。さっさと、そうかいわかったよが決めたならそのようにしっかりやるんだよ、と笑って送り出してあるべきだ。
 けれどもひとことだってそんな言葉は口から出やしないし、が傍にいる限り顔だって上げられそうにない。
 もただ困ったように微笑して、それきりなにも、言わなかった。



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