06.しずくの少女

 結局彼は、見送りにも来なかった。孤児院を出る日、フィオとお揃いの花束とマフラーが届いただけだ。相変わらず趣味がいい。
 もうくらいの年になると、子供たちは彼のお兄さんがただのお兄さんでないことくらい知っていた。
 ただのお兄さんは、そのうちただのおじさんになる。彼はずっとずっと未来にならないと、おじさんにならない。

 花束の中にカードがあった。
『In bocca al lupo』
 そっけない文字だった。でもうんと、考えて考えて、きっとこれしかでなかったのだろうとなんとなく思った。

 カードを手に持ったまま、は少しおかしそうにくすりと笑った。
「…どうした?」
 隣の席にすわったクマ…ではなかった、の師匠になるマルコーニが、不思議そうに彼女を見ている。小さな目。本当にクマみたいだ。豊かなひげ眺めながら、これで30代後半には見えないと心の中で口元をほころばせる。
「これですよ。」
 そうっとは、宝物をつつむような手つきでカードを手渡した。
 彼もまた、その気配を察してそおっと、そのカメラや現像の際にピンセットや、細かな機器を扱うとはおもえないほど、太く無骨な指で受け取る。
「"こううんをいのる"?」
 そっけないカード。
 たったひとこと。真っ白な紙に文字は小さく、しかし踊るように華やかだ。ひげの向こうで、彼の口元が笑みを作る。

「…はなかなか罪作りなようだ。」

 その言葉には目を丸くして、それから明るい笑い声を上げた。
「ふふ、そう見えます?」
「聡明そうなお嬢さんだとばかり思っていたが…カードの主とは喧嘩したのかな。」
「うーん、」
 頭を掻きながら、は肩をすくめた。
「喧嘩じゃないような、喧嘩なような。」
「カメラマンなんかやめとけって?」
 悪戯っぽくマルコーニの目がたわむ。この人は人見知りなだけで、慣れると、意外とおしゃべりだ。しかし嫌なおしゃべりじゃない。ぽそぽそとそした喋り方は、不思議と人を和ませる。

「なんで相談しなかったんだ、って。」

 いいひとだね、と彼が笑って、そうですね、とも笑った。
「小さな頃、私夜なかなかひとりで眠れなくって、お話をよくしてもらいました。」
 カードを受け取りながら、の指先がそっとその表面をなぜる。
「お話?」
 おや恋人じゃなかったのか、と目を丸くしながら話を続ける。
「ええ。お話です」
 話しながら、窓の外には一面の花畑。
 列車の窓を開ける。
 彼女は風に長い髪を靡かせて少し笑った。とても優しい顔、してたから、きっとたいせつなのだろうと彼は思った。
 捨てられない、ぬいぐるみだとか絵本だとか毛布だとか、未だに納屋にしまってあるように。優しい記憶を伴うたいせつを、懐かしむ顔、している。

「いつも最後まで聞く前に眠ってしまって――どこからが私の見た夢で、どこまでがあの人が語ってくれるお話だったのか。今でもわからないんです」
 ふぅん、と相槌。白い鳥が舞った。
「丘であの人が待っていて、楽しく遊ぶのは私の夢なのかしら?いつもお話と夢の継ぎ目はスムーズで、区別がつきませんでした。」
 今もこの人は、その夢の続きを見ている。
 魔法にかけられた少女だ。もう少女を過ぎていても、その言葉が似つかわしかった。どこか少年にもにた、すずやかな気配。笑うと花が咲く。しなやかな若い鹿を連想させる女性だった。
 いつも彼女の周りを、夢に吹く草原の風が取り巻いている。いつも背筋を伸ばして、どこか遠くを見ている。高純度に、濾過された滴の一滴。銀の目は星の色をしている―――。

「その人に訊いてみたい?」

「ふふ、少しだけ」

 肩を竦めてはにかんだ笑顔。
 窓から金の粉が入りこんで宙に舞った。光の中、彼からはなにか祈るように見えた。動作のひとつひとつ、時間がゆっくりと流れて、やさしくて、それからほんの少し、悲しそうな目、していた。




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