09.アンコール |
知らせを受けて、彼は仕事もなにもかもほっぱり出して、教会へ走った。 その人は眠っていた。 彼にきがついて、「ああ、」と笑顔をつくった。 「、」 ささやくように、彼が言った。 かつて少女だったその人の、顔を覗きこんで。ほたりと彼の涙が、その人の頬に落ちた。 泣き虫なの、相変わらずねぇ。 乾いた手を彼の頬にひたりと伸ばして、彼女はおっとり微笑んだ。 「聞いてください、私ね、」 世界中、ありとあらゆるところ、それこそ鳥しか知らないような、それこそ魚しか知らないような、そんな世界の一番果てまでくまなく旅をしたけれど。 「砂漠にかかる虹を見ました。白い瓦礫の街を見ました」 駱駝しか知らない、海蛇しか知らない。砂漠の向こう、海の底、白く連なる山々の峰、深い深い森の奥、時に置き去りにされた部族の集落に、灰色の工場広がる都市に。 「オーロラを海驢と並んで見ました。千年も生きる大木を見ました。北の海では、星はさびしくなるほど美しくって、」 大河の注ぐ先、天空の都市、かつてあったものとこれからうまれくるもの。小さな夢の島、沈みゆく街。 ひとりの人間が、人生のすべてで、まわれるだけの土地を、見、聞き、歩いて、走って。たくさんの人々、ことなることば、同じ笑顔。戦争があって、紛争があって、闘争があって、平和があった。滝を見た、月を見た、太陽を、鳥を、鯨を、森を、闇を、地の底を、あらゆるものを、彼女は見た。 見た。 「私、あの部族の子供の笑った顔、きっと忘れません。世界中で出会ったあの子たちの笑顔、忘れない」 けれどこんなに見たと言うのに、おそらく信じられないほどに、世界をくまなく回ったというのに、それでもなお人の世は短く、時間が足りない。 「でもね、」 囁く吐息は少女のままで、なにもかもが変わらない。 「足りないんです、見つからない。あなたの"あの子"がどこにもいない」 きみは、君はまだあの話をおぼえていたの。 言葉に詰まってなにも出てこない。 ほたりほたりと彼の目玉から涙が落ちる。心臓の辺りからうまれいづる涙は熱く、燃えるような花に似ている。 探したけれどね、見つからなかったとその目が言う。いつか一緒にあなたが遊んだ、初めてのお友達、国の子供。 ちがう、ちがうんだ。 彼は首を振る。彼の心は混乱して、ちりぢりに乱れている。 なにがちがう?ちがう、あの子をさがしてた。でもちがうんだよ知っていた。あの子はどこにももういないこと。地上をはなれて、どこか遠くへ去ったこと。 どこかでしんじていたかった。けれどほんとは知っていた。もういない。それでもしんじていたかったのは、それでもしんじるふりをしたのは、そうしてしんじているかぎり、少年のころのままの心でいられたからだ。 それを少女にはなしたのだって、魔法の延長。 おさない約束をひたむきにしんじて、友の帰る日を待っている少年。そのままでいれば、心は子供のままでいられた。あの子とは違ういちばん、つくらなくていいから、悲しまずにいられたのだ。 いつもさめない夢をみているつもりで、さめない夢をみていた。 でもちがう。ちがった。ごめん、ごめんよ。夢ならとっくにさめている。あの優しい丘で君と遊んだのは他でもない―――、 「じかん、たりなくて困ります」 笑った顔ばかりが変わらない。 「ねぇ、フェリシアーノ。いいえ。いいえ、ねぇ、ヴェネチアーノ。わたしのくに、わたしのあい、わたしのにく、わたしのほね、わたしのふるさと。」 なに、と言おうとして彼は失敗した。鼻をすする音だけ鳴った。 「お話をしてください」 「おはなし?」 「ええ。眠る前のお話です。私が小さい頃、枕辺によく聞かせてくれた、」 白い小舟に淡い花々、青いお馬に乗った騎士、金のホルン。まだ覚えていますよと変わらぬ瞳が微笑みかける。 私はもう眠る時間なので、眠ってしまうその前に、お話を聞かせてくださいませんか。あなたの優しいその声で。 ふいにじわりと、彼の胸の真ん中にあたたかい白が滲んだ。 私は今、帰ってきましたよ、とやわらかい眼差しが微笑して彼を見上げている。私の肉、私の骨、いつかかえるところ、たったひとりのあなたに。 かえってきました。 濡れた眼を彼はぐいと拭って、しかし涙は止まることを知らない。乾いた手のひらを若い頬に押し当てて、それでも彼は微笑んだ。 おまえがとても、いとおしい。 「おやすみの話―――小さなお前が、眠ってしまうその前に―――金の稲穂、きらきらと――、」 軽くなった髪を、彼の空いた方の手がそっとなぜた。 おやすみを言ってほしい。いつまでも変わることのないその声で。 「おやすみ、、」 おやすみ、まぁるいなみだひとつ。 |