「はぁ〜!びっくりしたぁ!」 ベンチに腰掛けながら、彼が大げさに息を吐く。ほい、と手渡された缶ジュースを受け取りながら、どうもすみません、とがわらう。タブを倒すどことなく夏の気配がする音がふたつ並んで、ホームに落ちた。 「でもほんまに気がつかへんかったんですか?」 「ぜんっぜん!」 首を全力で振りながら、彼が否定する。 「俺しかおらん思っとったもん!あと一歩気がつくんが遅かったら歌でもうとうてたとこやで〜!」 「あは、それは聞いてみたかったかも。」 「勘弁!」 あははと陽気に二人の笑い声が響いて、それからすこししんとした。 春のにおい、花があちこちで咲いている。 「で?」 「ん?」 「先輩はなんでこないなとこにいはるんですか。」 まっすぐ見つめるの目。真黒だ。しかし明るい。不思議やな、と緑の目をした彼は思う。 「それはこっちの台詞やん!」 「私は地元がここら辺なんです。」 「へえー?知らんかった。そりゃ、えっらい田舎やなぁ!」 「ほっといてください!」 そこまで言って、お互いまたあははと笑い出す。どちらも生来陽気な人なのだ。 「私は実家に用があって帰っとったんです。先輩は?」 「んー…あれや、あれ」 ニシシと白い歯見せて彼が笑った。よく焼けた肌は春というより夏がよく似合う。 「おやおやおや?なぁんだかいい匂いがしてきましたよ?」 黙っていればいいのに、おどけて下手な物真似。しかも本人は、これで結構似ていると自負しているから仕方がない。もちろんは、盛大に吹き出すと笑いだした。似てない。しかし、なんの真似がしたいのかはわかってしまう。 「ぶふっ!あっははははなんですのんそれ、に、似てへん〜!」 「ひどいなぁ!俺これでも頑張ったのに!」 「だって!ひいいい!なんですか、えっ、もしかしてブラリ途中下車ですかあっはは!」 「む〜…いい加減笑うの止めぇや〜さすがの先輩もへこむでぇー?」 「す、すみま…うひぃ!」 「ひどい!」 口をとがらせて本格的にいじけだした彼の隣で、はまだお腹を抱えている。 彼のことを少し話そう。 流暢な日本語、もとい関西弁を操る彼――名前をアントーニョ・ヘルナンデス・カリエドと言う。名前からしてそうなのだが、その顔かたちを見ればますますはっきりわかるように、人種がを含む日本人とは異なる。 両親共に生粋のスペイン人で、しかし、彼がかの地にいたのは5つの頃まで。小学校に上がるのと同時に日本へやって来て以来、スペインへ帰ったことはないらしい。 それでその、彼が引っ越してきた先が、大阪だったものだから、今となっては立派な関西弁の使い手――というよりもむしろただの関西のお兄さんである。見た目だけなら日本語が通じるかどうかさえ不安になるというのに、専攻は国文学、しかも立派に院生で、専門は金槐和歌集だというのだから、まったくもって詐欺だ詐欺だとよく酒の席では笑い話にされる。 彼自身それを気にするわけでもなく、楽しんでいるようだ。 実際毎年春になると、彼は同一専攻の新入生に、めちゃくちゃなハイテンションのまま、スペイン語で話しかけるというイタズラをする。比較的耳慣れた英語ですらない言語と彼のテンションの高さに、大概は目を白黒させ、なんとか笑ってごまかしてみたり、時には涙目になったり、と毎年のようにみんながひっかかり、次の新入生が入るまでの間、しばらくネタにされるのだ。 かくいうも、それはみごとに引っかかった。 初めて足を踏み入れる研究室なるものに、期待と不安に胸を高鳴らせ、いざその戸を叩こうとした、その時。ガチャリと扉が勝手に開いて、暗い茶色をした癖っ毛をあっちこっちに短く飛び跳ねさせた褐色の肌の、ずいぶん目鼻立ちのハッキリとした――外人や!の第一印象はずばりそれだった―――男が顔を出したのである。 当然彼女は、軽くパニックに陥り、停止した。 (外人さんがおる!なんで!?なんで!?ここ日文研やんな!?英文とちゃうやんな!?なんで外人さんおるん!?なんで!?なんで!?) ハタと止まった彼女を、緑の目玉、高い背で見下ろしてじいっと見つめていた彼は次の瞬間、大きな声で、「Mucho gusto. !Oh! Como la muchacha bonita!!!」には謎の言語を発した。しかも声がでかい。ムチャチャてなんや。パニックである。 (お元気ですか!ハイ元気ですおおきに!っておい!なんでやねん自分で自分に言いなや!) 「?Como esta? !Soy fine.Grrrracias!!!Eh! en que estoy sobre?! !Me respondi por mi!!」 「へ」 (はははは!おもろい冗談やろ!え?そう思わへん?) 「!Hahaha! es el chiste demasiado bueno! ?Ah-ah? no piensa eso?」 「は、」 (こまっとる?こまっとるやんなぁ!ごめんなあ。でも俺めっちゃ楽しいわぁ!) 「Lo averguenza? lo averguenza!?Lo siento.!pero soy tan divertido!」 「いや、」 (おはようさん!こんにちは!こんばんは!名前なんて言うん?) 「Buenos dias!Buenas tardes!Buenas noches! ?Como se llama usted? 」 「あの、」 やたら巻き舌。それだけはわかった。混乱した頭では巻き舌=スパニッシュ系という限りなく正解の答えを導き出し、さらにその混乱しまくる脳を振り絞った。なにか、なにか話さなくては。 そうしてとっさに出た単語がなぜか、 「ど、ど…!ドンデエスタエルセルヴィシオ!」 だった。 直訳すると、『お手洗いはどこですか!』 これはひどい。 彼女が唯一知っていた、スペイン語がこれだったのだ。とっさにこれが出てきただけ、偉いというべきか、言わなきゃいいのにと言ってやるべきか。 廊下にの、『お手洗いはどこですか!』がこだまし、しんとした。 緑の目玉が、次の瞬間楽しそうにたわむ。 「…ぷ、」 次の瞬間には彼が大爆笑し始めた。の叫んだ言葉の意味を知っていた、研究室の中で毎年恒例の彼のいたずらに耳を澄ませていた教授と先輩たちも笑いだし――わけのわからないばかりが、真っ赤になって目を丸くしていた。 よく彼のことを嫌いにならなかったものだと、はその話をネタにしたりされたりする度に、頭の隅っこで我ながら感心する。 その話も、当時彼女が2回生で、彼は4回生だったから、もう2年も前の話になる。 前述のとおり彼の人柄かのおおらかな性格か、今ではすっかり、持ちネタと言っていいほどの笑い話。面倒見のいいやんちゃでおもしろい変てこな先輩と、しっかりものでツッコミもこなすわりにどこかボケているかわいい後輩、でふたりは通っている。人生どこでどう転ぶかわからない。 「せやからおもしろいんやん。」 「あ、そーですか。」 「今からがっこ?」 カリエドがくりくりと緑の目玉でを覗き込む。相変わらず髪の毛はあっちこっちに跳ねていて、寝ぐせなのか癖毛なのか。。白い歯見せてちょっと笑いながら、彼が尋ねるので、もやっぱり笑いながら「はい」と答えた。 「それやったら一緒にかえろ!おにーちゃん思い立って旅に出たはええんやけど、お金、なかってホームから出られんかってん。定期しかなかったん忘れとったわあ。」 偶然通りかかったおばあさんが、少し目を丸くしながら通り過ぎた。彼の喋りの達者なことは、滞在年数を考えれば当たり前なのだが、やはり知らない人間には「えらい日本語が達者な外人」にしか見えない。 それに少し笑って肩をすくめながら、二人は次の電車をのんびりと待つことにした。 |