ポトン、と屋根を叩く音がしたと思ったら、もうあとは早かった。
 あっという間にポトンポトンがポタポタポタ、ボタリ、バタン、ザアアアアア。夕立だ。蜩が遠くで鳴きだして、急に風が涼しくなった。慌ただしく雨の中走ってゆく明るい悲鳴。夏の雨はなぜか楽しい。
 けれどもこれは、あんまりの土砂降り。
 傘を忘れた。

 今日のには、あいにくと飛び出していく勇気がない。勇気がないというよりは、今この中に飛び出すのが惜しい。向こうの空は明るくて、虹が出そうなのがひとつ。夏だからと、新しい真っ白なワンピース、着てきたのがひとつ。雨が滝のように降るので、あっという間に地面が海になった。
 この中を駆けだしたら、転ぶ自信がある。転ばなくたって、泥が跳ねるだろうし、ひょっとしたらマンガのように、自転車やトラックに、水をかけられるかもしれない。せっかくのワンピースなのだ。洗いたての入道雲みたく、真っ白な。
 急ぐ用事もない。すでに西の空は明るい。焦ることはないからのんびりしていこう。かといって、階段を上って、研究室に戻るのもつかれた。なによりもう、鍵を閉めて出てきてしまった。もう一度事務室に鍵を取りに行って、それから階段を下ってまた昇ってというのが、面倒くさい。

 階段横の屋根の下、は壁にもたれてふうと一息、空を眺めた。
 ザアザアと雨はますます強くなる。中庭の緑が水をたっぷりとうけて、ますますその色を濃くする。
 雨の日は不思議だ。その粒のひとつひとつが、レンズの役割でも果たすのかしらん。遠くのもの、小さなものが、ぐんと近くに見えてくる。
 あそこの電信柱の上でカラスが濡れてる。あ、今カナブンが飛んで行ったな。あそこの研究室、窓が半分明けっ放しだ。葉っぱの裏に、かたつむり。今白い石が雨とぶつかって跳ねた。
 そんな具合に見えてくる遠くの景色。
 バシャバシャと水を跳ねる音。誰か駈けてくる。雨の中雨の中、しぶきのプリズム。白いシャツが光を反射している。
 ―――おや?
「先輩!」
「おおー!ちゃん!」
 しぶきを払いながら、カリエドが屋根の下へ駈け込んで来た。
「いやあー!突然降るんやもんな!びっくりしたわあ!」
 笑いながら、犬のように頭を振った。ぱっと水滴が飛ぶ。はちょっとその動作がおかしくて笑った。「あ、ごめんな。」水が飛んだのかと、彼が軽く頭を下げる。きらきらきら、と陽が射して、しかし雨はやまない。輝くような天気雨。ひとつぶひとつぶ金色に光って、神様の飲み物のようだ。空が白い。
「よぉ降るなあ。」
「そうですねぇ。」
「やまんなあ。」
 やまなきゃいいのにと思ったのはだれかしら。

「He!Jolies deux personnes!」

 キラキラと今目の前の雨をかがって編んだみたいな、かがやく金の髪がわらった。
「お〜フランシス!」
 二階からにこにこ身を乗り出して、いつかのフランス人のお兄さんが手を振っていた。一瞬には、その窓辺だけ外国の映画のワンシーンのように見えた。
「雨、止むない!」
「ほんまやな〜!」
 相変わらずの、おかしな日本語。それでももちろん通じたので返されたカリエドの返事に金の髪の人はにっこり笑った。
「Bibbidi Bobbidi Boou !!」
 魔法の言葉だ。真っ青な棒が降ってきた。
「っと!」
 カリエドが慌てて受け取ると、それはビニルの真っ青な傘。
「ええの?」
「Oui.」
 おおきにと笑って、彼がに傘を渡すと、すかさず上から「Non!!チガう!」と声が飛んだ。「あ、先輩どうぞ。」「えー!そんなん悪いわあ!」「Noooooon!!!」
 ああ、せっかく映画のワンシーンの窓辺だったのに。金の髪を振り乱してつっこむ様は、少しかわいそうにもなってきた。ちょっと顔を見合わせて屋根のしたの二人はちょっと笑った。なんだか少し、照れくさい。
「わかったわかった、二人で使わせてもらうわ!」
「ええと、メルシー!フランシスさん!」
 ありがとうと二人でもう一回笑うと、窓の上で映画の風情をちょっぴり取り戻した彼が肩を竦めてパチリと片目をつむって見せた。

「Un arc-en-ciel parait!」

「なんですって?」
「さあ?虹が出るんやってぇ!」
 青い傘ノした肩を並べて歩く二人の上には、確かに素敵な天気雨、虹が出ていた。



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