―――『血と若草』から連想される短い詩・あるいは物語を書きなさい。
 それが奇妙な夏休みの課題だった。その課題を渡されたときの、教室の反応はまちまちで、しかし大まかには二等分できたと思う。ひとつは楽しそうだ面白そうだと課題に対して意欲的な態度を見せるもの、もう一方は課題に対して否定的であったり消極的であったりという態度を見せるもの。その他の極一部は、そのどちらとも感じていない。
 俺はどちらかと言うと、消極的な部類だった。困ったと思った。こういった、想像力だとか空想力を試される類の問題をもっとも苦手としていた。まだ分厚い数式のプリントを渡された方が遥かに楽だったと思う。自由に、と言われるほど俺の想像力は地に落ち、楽しく、と言われるほど俺の精神はぎこちなく動きを止めるのだ。加えて先生は、休みが明けたら全員の課題を朗読しあうと告げた。
「君たちひとりひとりの、タイトルは同一だが中身は異なるストーリーを、お互いに聴き合おうじゃないか。」
 夏休み明けが楽しみだねぇとフェリシアーノが笑い、それに菊がええと答える。その真ん中で、俺はどうとも答えられずにすっかり黙ってしまう。
 右隣の彼に関して言えば、その想像力には素晴らしく自由な七色の羽が生えていたし、左隣の彼に関して言えば、その思考力は空も飛べれば水底も歩ける風変わりだが素敵な靴を履いていた。
 真ん中に立ち途方に暮れた、俺は裸足で、背中に羽はなく、ただいつも与えられた言葉ばかりを繰り返し繰り返している。


















  





























  


 血と若草。
 その文字だけが原稿用紙に並んでいる。鉛筆は先ほどから俺の手を放れ、その上に無造作に転がっていた。
 困ったことになったものだと、俺は改めてその未だほぼ白紙の紙を見下ろす。
 血と若草、だなんて、奇妙なタイトルを提示されたものだ。赤と緑。そこまで考えて首を振る。色がなんだ。やはり自分は、こういった課題が不得手だと自覚するばかりで、どうにも手が進まない。
 髪の毛を一度ガシガシと掻いて、もう一度机に向かい直す。計算の書き取りも古典の訳も、科学式の写しも自由研究も。すべて終わっていた。残る課題はあとひとつ。
 ―――『血と若草』から連想される短い詩・あるいは物語を書きなさい。
 ケストナー先生の授業は、他の教科書一辺倒の授業と違っておもしろいと評判だが、それが時折、俺にはとてもくるしく感じられた。さて、では今日はまず教科書を閉じて。彼がそう言い出すのを、俺は密かに恐れてもいた。
 そもそも俺は、自由に考えるということが、どういうことなのかよくわからない。
 どういう答えを出せばそれが正しくて、どれが正解に相応しくないのか。それがとんと知れない問題が苦手だった。何も気にするなと言われるほどに、俺はなにもかもが気になる。こういうことを書けば先生はどう思われるだろうか、こういった表現にいい顔はしないだろうな、こう書けば喜ばれるだろうか、恥ずかしいな、笑われはしないだろうか。考え出すときりがなく、やがて考えることすら億劫になる。それでも提出しないという選択肢はなく、俺は頭を抱える羽目になる。試しにほんとうにでたらめに言葉を並べてみても、とてもではないがそれをいい出来だとは思わないし、それを他人に見られると思うと、俺は恥ずかしくて死にたくなる。真面目くさって詩を書いてみても、どう読んでも面白みの欠片も見出すことができず、やはりそれを他人に読まれると思うと、恥ずかしくて破り捨てる。
「…こまった。」
 椅子の背もたれにもたれかかって、俺は思わず呻いた。
 良い出来だと兄が手放しでほめてくれた、去年作った蝶の標本が、白い壁にきっちりと収まっている。今年は蝶だけでなく、蜻蛉や蜉蝣、翅虫も採集した。きれいなものをきれいなまま捕まえて、きれいなまま標本するのはたのしい。ただそのきれいなものを、自分の内側から取り出そうとすると、俺にはそれが、難しかった。
 ―――俺の中にはきれいなものなどないのかもしれない。
 そこまで思い至って深い溜息を吐く。
 ないものを取り出して見せるなど、できるわけがない。汚いものを美しくきれいに飾り立ててごまかせるほど、俺は器用ではなかった。ギイ、と椅子が鳴る。夏休みはもう一週間で終わってしまう。
 明日は海へ行くのに。
 憂鬱な気分だ。こんなに原稿用紙は真っ白なのに。そう考えたら少し笑えた。多分きっとケストナー先生は、俺がこうやって思い悩んでいることなど百も承知に違いないと思う。





















  


「浮かない顔だね。」
 ふいに覗きこんできた顔に微笑まれて、俺ははっと顔を上げる。
 が少し、困ったように頬笑みながらこちらを見ていて、遠くで兄が、同じような無表情をしている。噫、心配させた。
「…そんなことは、「あるね。」…そう、見えるか?」
 うん、とが笑って、俺は頭の後ろを掻く。
「どうしたの?」
 ストン、とが、俺の横の砂浜に座った。白いビキニの水着が、とてもよく似合っている。あまりに日に焼けていない肌を隠すように、兄の赤いパーカーを奪ったっきり、ずっと上から着ていた。そうすると、薄いお腹の白とパーカーの赤が対比して、余計白く、細く見える。せっかくの水着なのにと喚く兄には、「パーカーとTシャツ、どっちがいい?」と有無を言わさぬ笑顔で訊ねて黙らせていた。昔っからは強い。正確には、兄がに弱いのだと思う。

 俺の通うギムナジウムは、全寮制であるから、夏や冬の長い休暇にしか、こうやって兄やと過ごせる時がない。普段から過保護な彼らのことで、遠い寮で暮らす俺のことを心配している。だからこそ、休みの間は、心配いらないのだというところを見せてやりたいのだが、やはり俺は、まだ子供なのだろう。些細なことでしょっちゅう心配をかけては、兄とこの優しい幼馴染の姉を困らせる。
 二人に心配をかけずに済むように、俺ははやく大人になりたい。
「大したことではないんだ。」
「そ?ルートはいい子だから、我慢してないか心配だなあ。」
 ちょっと笑いながら、が俺の前髪を指先で払った。の髪は俺の金色と違ってやわらかい茶色だ。いつも俺の髪を彼女はお日様みたいできれいだと言うけれど、俺はのやさしげな色合いが好きだと思う。ちょっと触れた額があつい。の爪はきれいな桜色をしている。遠くから兄が、ズンズン近づいてきた。交互に俺とを見ている赤い目に、少し笑いかけると、へにゃ、と音のしそうな笑顔が帰ってきた。
 だいじょうぶだよ、兄さん、は俺を心配してくれているだけなのだから。

「まったくお前ら、海にきたんだから暗い顔してねえで泳げよなぁ!」
 文句を言うように、そう口を尖らせながら、それでもどっかり、兄はの横に腰を下ろす。いつもその頭の上に乗っかっている小鳥さんが、の肩によちよちと移った。かわいいと思う。
「どうした、ルッツ。」
 がっしりと逞しい体つきをした兄だが、その肌は白い。昔からあまり焼けない体質で、うさぎみたいとよくがからかった。
 緑の目と、赤い目。二対のひとみが、それぞれ心配そうに、俺を見ている。
 困ったな、本当に大したことではないのだけれど。
 早くに親を亡くしたためか、兄はもちろん親代わりのようなつもりでいるし、もきっとそうだろう。幼いころから俺は、この二人に助けられてばかりだ。
 黙っていては余計心配させるだろうから、俺は少し、こんなことで落ち込んでいることが子供のようで恥ずかしいけれど口を開く。

「………その……夏休みの、宿題が。」

 二人がきょとんと、焼けた砂上で顔を見合わせる。





















  


―――血と若草

 小さな丸い点が、
 地に落ちて波紋を広げた
 風に撓む線が、
 幾つも重なり合い
 やがて海原になる
 遠い少女の指先を
 滑る幾つもの円は、
 いつからか彼女を見なくなった
 点と線の交差したある角度に、
 鳥は現し世の儚さを知る
 線に寄り添う飛蝗の翡翠色に、
 少女は手を浸し
 ぼんやり年老いた孤独を考えていた
 陽向の影に朱がさすとき、
 僕のこころは球形の空
 内側へまるくなるほど、表面が張り詰める
 むかし君に飛ばしたしゃぼん
 その円とは異なる点が、
 ただ連なり落ちる
 僕はそれを両手で掬い、沈みかけた太陽に塗り込めた
 衝撃に弾けた卵の中から、
 固まりきらない体を抱えて
 天使がくる
 青い目の天使は
 点と線の上で踊りだした
 僕の耳は潮騒しか聴かない 」

 少し照れくさそうに、しかし歌うように堂々とフェリシアーノは自らの『血と若草』を詠み終えてわらった。ぱちぱちと拍手が鳴る。
 昔からこの友人はこういった分野に秀でていた。計算式や科学はからっきし。歌をうたわせればその喉は鳥のように陽気になったし、絵筆を握らせればカンバスの上に美しい世界が溢れた。歴史を暗記するのはてんでだめなくせに、古典は自然とその頭の中に収まっている。ペンを持てばすらすらと言葉が流れた。
 いつもどうやってそんなことを思いつくのだろうということを思いつく。
 拍手している俺の目と、フェリシアーノの目が合う。照れくさそうに、「えへへえ、」と肩を竦める友人に、俺も笑い返す。よかったぞ、と言う賛辞を込めて。それにやっぱりフェリシアーノは嬉しそうに笑った。彼はときどきテレパスを使えるらしい。
「ありがと、」
 と小さく口が動いた。

「次、」
 とケストナー先生の声がして、椅子を引く音。


 ―――血と若草。」
 穏やかな声が、朗読を始める。

 ―――草木(そうもく)の生い茂る原野には、常に東の山から、たっぷりと湿り気を含んだ風が吹きおろしている。男がひとり、草を割って歩いてきた。黒いマントが、風を孕んで、帆のように大きく膨らんでいる。彼は追い風を受け走る船、草原(くさはら)をゆったりと進んでゆく。西へ。
 なにかがその、痩せて頬骨のがっしりした男を駆り立たせていた。呼ばうような引力に惹かれ、彼は西へと、歩き続けている。もはや幾星霜の日々が過ぎ、しかし彼の歩みが未だ止まることはない。どこまで行くのか、どこまで行けばいいのか。彼自身知らず、自らの名前すら、時折夢幻(ゆめまぼろし)のような心持で、思い出すだけだ。
 俺は歩いている。俺は歩かなければならないと感じているが、それがなぜかと問われればまるでわからない。喉が乾いた。気がするだけだ。腹が減った。と最後に思ったのはいつだったろう。俺はもうずいぶん、歩き続けている。眠ってもいない。俺はいったいどうしたというのだろう。知らぬ間に、夢でも見ているのかしらん。夢にしては奇妙な夢だ。ただ黙々と、西へ歩くだけ。夢というのは、そもそも奇妙なものだから、これが普通なのかもしれないが、しかしやはり、意味のわからないことだ。理由も知らず、行く先も知らぬ。しかし歩かねばならない。ただ、歩かなければならない。もはや歩くことだけが俺を生かし、俺を俺たらしめている。ああしかしその俺とは誰だったろう。西。西にはなにがあったろう。なにかがあったような気がする。祖母の故郷だろうか。父の墓だろうか。何か、自らに連なるものがこの果てにあったように思えてならぬ。
 しかし彼には、自らの名どころか、存在すらも曖昧なのだから思い出せるわけもない。風が遠くで、咽び泣くように唸った。人であったことすらも忘れそうになりながら、なお男は歩き続ける。何かが確かに、彼を惑星の引力の如き力で引き寄せ続けている。そぞろ歩くくさはらの、海原のような寄る辺のなさ。風が鳴り、草が鳴る。男はやがて、西の方へ見えなくなる。」

 抑揚のない声が、淡々と物語を読み上げ、そうして彼は初めて、感情を取り戻したかのようにかすかに微笑んだ。恥ずかしそうな微笑だが、どこか満足気でもある。色の白い彼の耳は赤く、目はつややかに輝いていた。
 パチパチと広がる拍手。
 彼はひとしきり勉強も器用にこなしたが、こういった類の課題には、不可思議な独自性を発揮した。それはフェリシアーノのものとは性質(たち)の異なる才で、どこか陰鬱な、湿度の高い空気を含んでいる。故郷の異なる友人らの中でも、ひと際遠くから来た友だ。それ故か、彼の物語は、なおさら俺の耳には独特に響く。草はらをそぞろ歩く、その男はいったい誰のことだろう。
「お粗末さまでした。」
 ちょっと笑う菊の頬は、やはりかがやいているように思えた。





















  


 その晩の食卓はひどく豪華だった。
 いつものことながら、俺が寮へ帰るその日の夕飯は、兄とが腕によりをかけて作る。家に帰ってきたからと言って甘やかさない、がモットーの兄だが、その時ばかりは少しの手伝いも、俺には許されない。ほんの少しばかり手持無沙汰な心地を持て余しながら、俺は準備が整うのを散歩をしたり本を読んだり、犬たちと遊びながら待つ。
「ルッツ飯だぞ、」
 そう笑う兄の八重歯が、犬みたいだなと俺はたまに思う。

「今日はごちそうだよ〜。」
 うふふとが笑って、ノエルでもないのに七面鳥を抱えてきた。
「うわあ!」
「俺様特製のワインもあるぜー!」
 兄の手にはグラスがみっつだ。
「む、兄さん。俺は未成年だぞ…。」
「ちょこっと!舐めるだけだって!な!」
 けせせと笑った兄を見、それから困ったようにを見ると、肩を竦めて彼女は微笑む。「今日は特別、」そういうものだろうか。七面鳥だけではない。次から次へ運ばれてくる食事の数と量に、毎回俺は食べきれるものだろうかと不安になるが、深夜遅くまでわいわい三人と犬たちでさわぎながら食べていると、いつの間にかなくなっているから不思議だ。おまけにその味は、年々上がってきていると思う。

はいいお嫁さんになれるな。」

 ひとくち口に含んだスープがとてもおいしかったから素直にそう言ったら、兄がなにか大声で喚きだした。小鳥さんが俺の頭の上へ避難してくる。兄の顔は赤い。
 おかしくなって笑ったら、もおんなじように笑っていた。でもちょっと耳が赤く見えたのは、蝋燭のせいだけではないはずだ。

「たっくさん食ってけよ!なにせあそこの飯は不味くはないが種類が少ない!」
 そう喚く兄は、俺とおなじ学校にかつて通っていた。卒業目前に両親が亡くなって、彼は俺を育てるために働き始めた。俺はもとから、勉強が向いてないんだとなんの未練もないように笑う兄が、しかし一部でその将来を嘱望されていたのも知っている。たくさん勉強して大学へ行って立派になれよと言う兄の逞しい手のひらが、とても格好いいと思う。
「ルー、これも!ほら、だめよ、もっと食べなくっちゃ。」
 ちょっと酔っぱらってがころころ笑う。はきれいな手をしている。酔うと本当に、赤ん坊の頃のような呼び名が出るのが、俺はとても、くすぐったいようで、恥ずかしい。それでもそう呼ばれると、どこか優しい気持ちになる。大学を出て仕事もあるのに、はいつも、ご飯を差し入れてくれたり、掃除を手伝ってくれたり、たまの喧嘩の仲裁をしてくれたりする。特に俺の夏休み最後の一週間は、休みを取って兄と一緒になって色々なところへ連れて行ったり、おいしいものを食べに行ったりしてくれた。小さな頃からいつもは優しい。昔、といってもほんの小さなよっつの頃だ、俺はが俺のお嫁さんになってくれればいいなと、思っていた。
 今?今は、――――。
「ルッツ!こいつに取られるまえにこれも食っとけ!」
「ちょっと何人のこと大食いみたいに!」
「実際そうだろうがいででででで!!」
「フン!」
 二人はたまに、騒々しい。声をあげて笑ったら、二人とも恥ずかしそうにわらった。
 俺はふたりが、いっしょにわらっているのが好きだと思う。


















  


 ―――血と若草。」

 ―――血と若草
 血はすべての生き物の内を廻っていて、すべての生命を生かしている。大地にも、マグマという血が、流れている。鼓舞するように、生きろ、と強く頷いてくれる。それは俺に連なる唯一のもの。
 若草は優しい。倒れこんだ時、やわらかく撓んで、クッションになってくれる。頬を撫でてゆく風が気持ちがいい。草はらの鳴る音は、潮騒に似ていると、海へ行って思った。俺はとても、それを好きだ。
 血も、若草も、俺を生かしている。
 俺はそのどちらも好きで、どちらも同一のものだと思う。どちらも好きだから、そのふたつが一緒でも、俺は優しくなれると思う。若草にもきっと、赤い血が通っている。マグマはきっと、草はらだけは焼かないといい。





 パチパチと拍手がまばらに鳴る。
 俺はきっと耳まで赤くなっているだろうな、と考えながら席についた。
 ケストナー先生だけが、珍しそうに、どこか親しみのこもった笑みで、俺に拍手をしている。ふたりの目の色。
 俺もいつか。きっと笑顔で拍手をするよ。
 しろいふくきたふたりに。

 血と若草の詩。







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