でたらめな節つけて歌うのが好き。エーはアップルパイ、ビーでこっそりつまみ食い、シー!やっぱり切って、ディーで分けようみんなで美味しいアップルパ〜イ。
 水色のリボン、水兵さんの帽子。大きな本を小脇に抱えて、ピーターはてくてく、海の見える坂道を昇る。気持ちの良い風が吹いている。潮風の匂い。生まれた時から嗅ぎなれた匂いに、特に感慨を催すこともなく、彼は元気いっぱいに歩き続ける。お目当ては坂の上、一本のアカシアの木。小さな港町全体を見渡せるその小さな丘は、彼の秘密の場所だ。木を少し登ったところにある小さなうろの中には、ビスケットの瓶とりんご、それから望遠鏡に虫眼鏡、ビー玉とパチンコを隠したバスケットが隠してあって、それにかけた白いハンカチを枝に結べば海風にはためく帆、あっという間にその木は彼だけの船になる。黄色い花をたわわに咲かせた、船の名前はピーター・シーランド号。どんな嵐の航海も乗り切ってきた世界一の船。カークランド、という少しばかり気に食わない自らのファミリーネームをもじってつけた、うみのくに、と言う響きが、彼はとても気に入っている。

「キューでよっつに…あれ?」
 お歌の途中で首を傾げて、ピーターは立ち止まった。
 黄色い花、たわわに咲く彼の自慢の木の下に、知らない女の人が立っていた。
 真っ白な袖のないワンピース、つばの広い麦わら帽子には白いリボン。少しヒールの高いサンダル。肩よりも長いブラウンの髪の毛はさらさらと風に流れている。
 侵入者だ。
 すぐさま彼はそう判断して、ぱっと残り少ない丘の頂上までの距離を駆け上がった。

「あんたここで何してるですか!」
 ムンと胸を張って仁王立ち。開口一番そう言い放ったピーターに、女の人はきょとりと目を丸くする。
「なにって…あなた誰?」
 なにかご用?
 ゆったりと首を傾げられると、なんだか自分の方が悪者のような感じがして居心地が悪い。しかしそこは、彼の、彼だけの場所であり彼の特等席なのだから譲るわけにはいかない。子供にしてはいかめしい眉毛と眉毛の間に力を込めて、ピーターはムンと高いところにある顔を睨みつけた。
「ここはピーターくんの秘密基地ですよ!」
「あら、そうだったの?」
 悪びれる風もなく、女の人は肩を竦める。
「なら立札か何か立てておいてもらわなくちゃ。」
「そしたら秘密基地にならねーですよ!あんた頭悪いですね!」
「…ピーター君はお口が悪いのね。」
「…!どうしてピーターくんの名前を知ってるですか!」
 目をまんまるにしたピーターに女の人がくすくす肩を揺らして笑った。拍子に長い髪が肩から毀れて、それを耳にかけ直す仕草が大人っぽい。彼の周りにそういった動作をする女性と言うのはいなかった。
 名乗ってもいないのに名前を言い当てるとはなかなか侮れない大人である。ピーターはぷくっと頬を膨らませたまま、油断せずじっと女の人を睨みつける。しかし彼の視線などどこ吹く風、と言ったように、女の人は町の向こうに見える水平線へ視線をスイと移した。カモメが鳴く。いい風だ。黄色い花がいくつか零れて、はらはらと木陰に散っている。女の人から視線を移すことなく、ピーターはじりじりとアカシアの幹へと蟹歩きに回り込むと、器用に本を抱えたまま、木を登り出した。そう高くもない木は、真ん中で三つに分かれている。そこに落ち着くと、ようやく女の人より視線が頭三つ分ほど高くなる。よいしょ、と一度座り直して、彼は真っ青なビー玉の目玉で女の人を見つめ直した。高い視線で見直すと、なんだ、かわいらしいもんである。
「おねーさんの名前はなんて言うですか!」
「わたし?」
 さっきまで自分を警戒心むき出しで睨みつけていた子供の、子供らしい変わり身の早さに、彼女はきょとりとして、それからおかしそうにわらった。
「マリーン。」
 海原で光が乱反射して、彼女の背景がハレーションを起こすほどに明るい。青と白の光の中、彼女がわらう。そうするとずっと大人びて見えた表情は少女のようで、ピーターはゆっくりと警戒を完全に解いた。
「マリーン。」
 教えられた名前をもう一度繰り返す。
 海の名前だ。
 マリーン。
 ―――マリーン。その日からまはマリーンのマ。
「ふぅん…マリーンはここで何してるですか?」
「―――人を待ってるの。」
「男ですね!」
 すかさず答えたピーターに、マリーンがあきれた、と眉を上げる。
「今時の子って、まっせてんの!」
「うっさいですよ!」
 ぷんともう一度頬を膨らませてそっぽを向くと、くすくすとさっきの笑い声が返って来る。
「もー!ここはピーターくんの秘密基地なんだから出てけこのやろーです!」
「ごめんごめん、」
 ちっともそう思っていないのが、笑っているので丸わかりだ。ますます頬を膨らませようとしたピーターの不機嫌を、しかしマリーンの眼差しがやわらかく撫でた。マリーン。その名前の通りの目。深いわだつみの色。彼の真っ青に透き通った明るい色とは違う、底のない揺らめき、水面の紺碧、不思議に重ねた暗い青。思わずぽかんと、吸い込まれそうな色の深さだ。
「ね、ピーター君、お願いだから、ここで待たせてくれない?」
 首を傾げて、穏やかにお願いと繰り返されて、思わず彼は口ごもる。
「どうしても、その人に会わなきゃいけないの。」
 だめ?ともう一度尋ねられて、彼はくちびるをあひるみたいに尖らせた。お願いされるのは悪い気分ではないし、彼は自称紳士なのだ、女性の頼みを無下にするのは本意ではない。例えその女性が、彼の秘密基地に"ふほうしんにゅう"してきた礼儀知らずであってもだ。ここを彼の秘密基地と知らずに入ってきたらしいことだし、ここはこちらが大人になってやらないと、と木に登ったせいで三つ分高くなった視界で、彼は考える。
「…いいですよ。」
 その答えにマリーンの顔がぱっと明るくなった。
 子供みたい。
 大人のくせに子供の秘密基地に立ち入り許可を求めたり、屈託なく笑ったり、なんだか子供みたいだ。その感想に気を大きくした彼は、樹上でムンと胸を張る。
「その代り!マリーンはピーターくんの手下になるですよ!」
「えええ〜、」
「ピーター・シーランド号の特別乗組員にしてあげます!」
「シーランド号?」
「この船ですよ!」
 ぱっと両手を広げて、金色の木漏れ日の下でピーターが笑った。さやさやと花をたわわに咲かせた梢が鳴る。風が金と茶の髪をそれぞれ揺らした。性質の違う二つの青い目が、明るい夏の日差しの下で重なる。ピーターの満面の笑顔。ふっとマリーンの口元が緩んだ。

「…良い船ね。」

 満足げに笑った彼のすぐ隣で、白いマストのハンカチがきらきらとはためいた。







(20120329)