次の日も、その次の日も、マリーンは来た。 「あんた、ずっと待ってるつもりですか?」 最初の日、人を待っていると言ったマリーンの言葉を覚えていた彼は、唐突にそう尋ねた。どうして、と子供らしく無邪気に尋ねたピーターに、少し驚いたように、その人は目を心なし丸くして、それからやはり、ふっと口元を綻ばせてわらった。儚げな、って言うですよ。覚えたての単語を、ピーターは頭の中で呟く。そういった微笑する人間が、彼の周りにはあまりいないから、物珍しく、美しく見えた。 「さあ。」 答えはどこか投げやりに聴こえた。 「さあってあんた…、」 適当過ぎるですよ、じとりと睨みつけたピーターに、その人がわらう。緑の木陰はそよそよ鳴って、いい天気だ。 遠くで船の、警笛の音。シーランド号からはよくよく町並みの向こうの海が見渡せる。きらきらと輝く湖面は、濡れた真っ青なガラスを敷き詰めたみたいだ。明るいコバルト。きらきらきらきら。きらきら…。ピーターの目と同じ色だ。好きでこの町にやってきたわけじゃあないけれど、ピーターはここをそれなりに気に入っていた。元いた街よりずうっとマシだ。田舎だし、魚臭いし、同じ年頃の子供は数えるほどいない上にどいつもこいつも子供っぽくってとても友達になれる気もしないしなる気もないが、海の風、潮の匂いは彼の生まれた町に似ていた。それからマギーおばさんの料理は悪くないし、なにより学校をサボってもおばさんは何も言わない。だからこそこうやって毎日、ピーターは秘密の丘でひとりで遊んでいられるのだ。学校の勉強は遅れている。そんなの前の街で、とっくの昔にやったところだ。…前の街には、半年もいなかったけれど、そうなものはそうなのだ。もっさい眼鏡の気の弱そうな先生の話を延々聞いているよりも、それよりここで図鑑を眺めて本物の虫や花と虫眼鏡で比べたり、町に出入りする人の職業や人生を想像したり、石を拾って来て割って化石を見つけたり、漁師のおじさんに網の繕い方を教えてもらったり、分厚い物語を読んだり、船の旗の合図を解読したり、クレヨンと画用紙で旗を作ったり、どうやったら小さなナイフでうまく枝を削って矢を作れるかとか、そんなことをしている方が百倍勉強になるとピーターは思う。そもそもこの町はのんびりしていて、ピーターひとりが学校へ行かないのをあまり問題にしていない。それにピーターが、どうしてこの町へ来たのか、狭い田舎で、大人はみんな知っているからというのもあるだろう。口うるさいのは真っ黒コートに真っ黒帽子の校長先生と、今ここにはいない彼の“ほごしゃ”だけだ。 このマリーンも、ピーターになんにも言わなかった。そういう意味では、マリーンはピーターに好ましい大人だと言えた。変に大人ぶらないところも、はっきりものを言うのも。 ピーターはときどき、マギーおばさんや町の大人、特に先生やお医者さん、牧師様なんかが真綿で包むように湾曲的に、自分のことを『かわいそうな子』というのが癇癪を起してあちこちめちゃくちゃにする“怪獣”になるほど大嫌いだった。 「いつまでも待ってたらババアになっちゃいますよ。」 「ピーター君は、本当にお口が悪いのね。」 覚えたばっかりの単語を使うと、マリーンは顔をしかめた。 「だってずーっと待ってるんでしょ。」 昨日も、一昨日も、その前の日も来た。 そう言うと、初めてマリーンはほんの少しピーターを小ばかにするような笑い方をした。そうするとずいぶん子供っぽさに拍車がかかって、ふいにピーターはマリーンは幾つだろうと思った。お姉さんだと思ったけれど、ひょっとしたらまだそんなに大人ではないのかもしれない。 「ずっとなんて、この世にはないわよ。できうる限り長く、ここで待っていたいけれど、ずっとずっといつまでも、なんてないし、できないわ。子供は大人になるし、化け物だっていつかは死ぬのよ。」 死ぬ。 それはなんとも、ヒタリと冷たいナイフのような、真昼間に相応しくない言葉だった。その言葉が、何よりもこの世で一等、ピーターは嫌いだったから、さっきまでご機嫌で船の旗を眺めていたのも忘れて樹上からマリーンを睨み下ろす。マリーンは涼しい顔で、海の向こうを眺めている。つばの広い帽子の影の横顔は、透き通るように白い。 それになんだがぞっとして、ピーターは首を元気いっぱいに左右に振った。まるでそこにからみつく冷たい影を振り払うみたいに。 死、という単語が彼はなにより嫌いだったし、それ以上にその単語が恐ろしい自分が大嫌いだった。マリーンの言ったことは意地悪だったけれど、でも一部分だけ、彼の気に入る部分があった。 子供は大人になる。 なんてすてきなことだろう、と、ピーターは思う。 「じゃあ待ちぼうけのマリーンは、その内おばあちゃんになっちゃうわけですね!」 「嫌な子ね。」 ちょっとムッとした声音に、子供に意地悪言うからですよ、と木の上で踏ん反り返ると、いやなこ、とマリーンが歌うように笑った。怒っていないらしい。その横顔に、少し血の気が戻ってきていて、ピーターはひっそりほっとする。 「マリーンは明日も来るんですか?」 「ええ。」 「明後日も?」 「ええ。」 「来週!」 「きっと来るわ。」 「来月!」 ぴたりとマリーンは口を噤んだ。 「来ないんですか?」 「来たいわ。」 そう言ったマリーンを、今度こそピーターは、ちょっと呆れて見下ろす。いつまでも、なんてないなんて言いながら、マリーンはきっといつまでもこの丘のこの木の下に来て、待ち人を待ち続け、本当におばあちゃんになってしまうだろうと思ったのだ。 「マリーンが待ってる間に、ピーターくんはとっとと大人になっちゃいますよ!」 「…そうね。」 大人になる。それってどんなにかすてきなことだろう。きっとどこへ立っていけるし、何にだってなれる。そうではない大人がたくさんいることも、賢いピーターはもちろん知っていたけれど、それはその大人が馬鹿で臆病だからだと思っている。どこへだって行けるのにどこへも行こうとしかない大人は馬鹿だし、何にだってなれるのに何者にもなろうとしないのは臆病者だ。 大好きだったあの人は、よくピーターに言った。ピーター、世界一勇敢な男の子。あなただけはいつまでも、どうぞ何にも縛られず、自由でいて。好きなことをして、好きなところへ行って、好きなものになって。 もちろんだ。大人になったら船に乗るのだ。ほんもののシーランド号。真っ白なマスト、真っ白な船体、青いライン。大波の山を、勇敢に飛び越える。 「ピーターくんは、早く大人になるです!それで 「………大人にならずに死ぬ子供もいるけどね。」 明るく希望に満ちたピーターの言葉をぴしゃりと遮るように、マリーンは静かに口を開いた。ムッとしてピーターは顔をしかめる。どういう意味だ。 「どういう意味ですか。」 その単語がやっぱり大嫌いなピーターは眉をしかめる。せっかく上昇しかけていた気分が、また台無しだ。 「…怒らないでよ。やだな。」 ピーターの怒気を感じ取ってか、しかし少し酷薄な、笑い方をその人はした。 「私が言いたいのはね、留まったままのものなんてないってこと。水が高いところから低いところへ流れるように、当たり前のことよ。すべてみな移ろう。」 あなたも、私も。 「そうでしょう?」 穏やかな笑い方なのにちょっとこわかった。暗い青の目が、ピーターを静かに眺めていた。少し怖い。「マリーンは意地悪ですよ。」子供相手に。なんとか口を尖らせてそう言うと、マリーンは屈託なく笑い声をあげた。 「お互い様でしょう。」 やっぱりこんな大人、秘密基地に入れるんじゃなかった。 |