ピーターが毎日懲りずに学校をサボって秘密基地に足を運ぶのと同じように、マリーンも秘密基地に、正確にはその木の下にやってきた。待ち人の現れる気配はまるでない。初夏の日差しはだんだん明るく強くなって、緑の丘に落ちる木の影ははっきりと黒くなった。大人のくせにあんまり毎日律義にやってくるので、このマリーンという女の人はよっぽど暇でお金持ちなんだと思う。大人がみんな働いていることくらい、ピーターは知っている。 「あんた暇ですね。」 と言ったら「ピーター君もね。」と時折顔を出す意地悪な面を丸出しにしてニヤリと笑われたので、それ以上意地悪なことを言われる前に、ピーターは慌ててその会話を切り上げた。あんまり毎日来るので、ひょっとして人を待っているというのは口実で、実はピーターのことが好きなんじゃないかとも考えたのだけれど、素直に尋ねたらそれこそ、嘲笑、としか言いようのない笑顔で樹上のピーターを見下ろしてきたので心が折れた。 マリーンというのは大抵静かで、ピーターが話しかけると相手をしてくれる。それで時々、子供相手に大人げない。毎日色の違うきれいなワンピースを来て、踵の高いサンダル。大抵三時のおやつ時に現れて、日が沈むまで木の幹に凭れて立っている。マリーンは時々、ピーターにお菓子をくれた。手作りだというそれは、不味くはなく、お菓子作りの上手な手下ができて彼はほどほどに満足だ。 一度、どうしてだったか忘れたけれど、手を繋いだことがある。冷たくてピーターはびっくりして、すぐ離してしまった。それ以来ピーターは、いつもその人の指先は少し冷たく、頬は白く―――時折彼女が真昼の寂しい幽霊なのではないかと心細くもなるのだった。そういう時、マリーンは一言も発さない。ふと夢中になっていた虫眼鏡の向こうの世界からピーターが木の下に視線を落とすと、マリーンの横顔が真っ白に透き通っていることがある。そういう時が、おそろしかった。慌てて木から降りて、「マリーン!なにぼうっとしてるんですかコノヤロー!」見上げた先で、つばの広い麦藁帽子の下でマリーンがかすかに汗をかいている―――夏の日差しのなかにただ立っているのだから当たり前だ。その首筋を物憂げに流れる滴を見る度、ああ、この人も確かに生きて、同じ日差しに焼かれて生きているのだと、木陰に並んで立ちながら、ピーターはそうかすかにほっとする。 「見張りをサボっちゃだめですよ!」 「さぼってないわ。」 手下の仕事は、秘密基地にやってくる敵を見張ることだ。 敵と言うのはもちろん、彼を連れ戻しに来る校長先生のことを主に言う。それから親切だけれどお説教に聴こえるありがたいお言葉が長い牧師様もだ。それらの敵を見つけたら、手下は船長に秘密の暗号を送る。 『アイヤエレニオンアンカリマ!』 その言葉が手下の口から発されるや否や、船長は“忍びの者”もびっくりのスピードで木から飛び降りて丘を駆け下りて身を隠してしまう。ゼエハア言いながら敵が丘を登りきった時には、木の下でマリーンが澄ましている。 「あら、校長先生、ご機嫌いかが?」 そんな具合だ。 実際手下ができてから、ピーターは二度も敵の襲来から逃れることができたので、今や見張りはマリーンの重要な任務になっている。 同時にそれは、ピーターがマリーンに声をかける、絶好の口実になっている。 「まったくぼーっとしてたら敵に寝首をかかれますよ!」 「…ピーター君て、物騒な言葉知ってるのね。」 普通に会話をしているときは、マリーンも普通の女の人に見える。笑ったり、ちょっと怒ったり。そっちの方がいいなあとピーターは思う。ちょっと意地悪な時も、あんまり好きじゃない。 「遊びじゃねえんですよ!」 「はいはい、ニンム。ニンムね…。」 「わかってるならチャキチャキ見張るですよー!」 サー、イエッサーという返事がなんともやる気がない。ぽこぽこほっぺたを膨らませてピーターが怒ると、マリーンはいつもおかしそうに明るい笑い声を上げる。ね、ピーター君、怒んないでよ、お菓子持ってきたよ、ねえ。そういう時のマリーンは、別に、うん、嫌いじゃない。 「今日はなんですか!」 パッと顔を明るくして、木から飛び降りるピーターにくすくす笑うマリーンはやっぱり大人らしかった。ピンク色の爪の先まで、いつもきれいだった。 「今日はね、マドレーヌ焼いたの。」 バターの焦げる、いい匂いだ。 「マリーンにしては、上出来なのですよ!」 マギーおばさんの料理はおいしいが、なにせ糖分が少ない。亡くなった旦那さんが、糖尿病だったので、料理に極力砂糖を使わないようにする“癖”が抜けないのだ。だからピーターには、こうして甘いお菓子を食べられる機会は貴重だった。 まだほんのりとあたたかい焼き菓子を頬張りながら、ふと、ピーターは考える。 ひょっとしてマリーンのこの待ちぼうけも、癖、みたいなものだろうか。来るかもしれない人を毎日待ってる、もういなくなったひとのこと毎日考えてる、それって癖だとピーターは思う。でもそれが癖なら、しょうがない。甘いお菓子が食べたくなっても、マギーおばさんには言わない。だって癖なら仕方がないから。マリーンに待つのなんてやめればいいのに、とは言わない。癖なら仕方ないもの。 だってピーターにも癖がある。 おねしょなんかじゃないし、指しゃぶりが治らないとか、そういうことじゃない。やめられないこと。止めるつもりがないこと。意識しなくても勝手に体が、心が覚えていることだ。夜眠る前と朝起きた時、一番最初に、もういない人におはようとおやすみなさいを言うこと。 |