「おいピーター!」
 聞こえてきた声に彼はゲェッと眉をしかめた。今日くるとは聞いていたが、もっと午後も遅く、夕飯時のことだと思っていた。そう思っていたからこそ、今日も今日とてここへ来たのだ。
「てめーマギーおばさんの言いつけを守って良い子にしてろってあれほど!!」
 ポコポコと腹を立てながら、もうこの丘の上にピーターがいることくらいわかりきっている男が、ずんずんと進んでくる。手下め、何をしていたとマリーンを見下ろすけれど、彼女はぽかんと目を丸くしている。そうだった、マリーンは彼を知らないのだから、敵か味方かなんてわかりっこない。それにそもそも、このピーターの最大の敵、校長先生や神父様と違って若いから、ピーターが走って逃げたってあっという間に追いついてしまう。
 万事休す。
「うっせーですよアーサー!ピーくんがいつどこでなにをしようとピーくんの勝手です!」
「お前なあ!」
 逃げるのは諦め、戦闘態勢にはいったピーターに、きっと彼が眉を上げる。
「俺はお前の叔父で、お前がちゃんと育つように面倒を見る義務がある!」
 耳にタコのその台詞に、彼がケッと顔をしかめる。はしたない、とアーサーが眉を潜めるが、彼だっておんなじような顔、しょっちゅうしている。
「だいたいピーくんのことこんな田舎町にほっぽってんのはアーサーじゃないですか!」
「なっ!ちゃんとマギーおばさんに頼んであるだろ!?学校にだって行かせて、月々の生活費だって面倒見てやってるじゃねえか!」
「そーゆーのをほっぼってるって言うですよ!!」
 じゃあなにか、と困ったように、彼はその立派な眉毛を下げる。
「お前は俺と暮らしたいのか?」
 最後までその台詞を聞く前に、彼は思いっきり木から飛び降りて男に飛び蹴りを喰らわせた。ビタンと地面にあおむけに倒される男の上に、ズダンと着地するピーターくんの二重のダメージに男は唸る。

「くたばれアーサー!!」

 それが照れ隠しでも素直になれないわけでもなく、彼の正直な回答だった。
 ピーターはアーサーが大嫌いだ。船の模型が欲しいと言っているのに、テディベアを送って寄越す男。何故って船の模型"なんか"よりテディベアの方が子供が喜ぶに"決まってる"と思ったから。そういう男。
 彼がピーターのなにかというと、たったひとり、唯一の肉親だ。父親でもなく、かといって兄でもない、奇妙な、不思議にちゅうぶらりんの関係であったけれど、世界で彼と一番近い血を持っているのは確かにこのアーサー・カークランドという男だった。正確には伯父になる。カークランド家という、田舎町に古いお城なんか持っている"良いところ"の若き当主で、彼の母の弟だ。"お嬢様"だった彼の母親は、家庭教師のオーストリア人の音楽家と恋に落ちて、海を越えて、浜辺の町へ駆け落ちしたのだ。しかしすぐに音楽家は死んでしまって、生まれたばかりの息子と彼女はふたり残された。慣れない異国で夫の助けなしに、それでも一生懸命頑張って、ピーターをやっつまで育て上げた。けれどもある日、天使が彼女をお迎えに来て、ピーターはひとりぼっちになってしまった。そうして彼を迎えに来たのが、初めて見るアーサー・カークランドというこの男だったのだ。
 第一印象は最悪だった。
 戸口に立つなりひとこと、「…せまっ。」ぼそりという独り言だったがもちろん静かな部屋だったので彼の耳にはよく聞こえたし、まるで物珍しい物でも見るように極普通の、ありふれた貸家の一部屋をジロジロ眺める、上質なスーツにステッキといういかにも金持ちの格好をした男を、彼が気に入るはずがなかった。
 人さらいかと勘違いされろといわんばかりの彼の泣き喚く声にも頓着せず、あっという間に彼を車に乗せ飛行機に乗せ電車に乗せ、彼は生まれた国から離されてイギリスなんて小さな島国に連れてこられたのだった。
 しばらくロンドンの彼のアパルトマンの一角に住まわされたが、あまりの環境の変化に体調と精神に変調をきたしたピーターを、“静かなところでゆっくり”療養させるために、昔屋敷で働いていたのだというマギーおばさんの海の町へ、放り出したのもこの男だった。
「ピーター…てめえ〜〜〜…!」
 フフンと仁王立ちのままだった彼の足を、ムンズと手袋はめた手が掴んだ。
「ギャー!!!!ゾンビーーー!!!」
「勝手に殺すな木から飛び降りるな危ないだろう!!!」
 まだ地面に這いつくばったまま、それもアーサーはピーターの足を掴んで離さない。
 ぎゃあぎゃあと騒々しい喚きあいを始めた二人の間に、不意にくすくすと小さな笑い声が通り抜ける。
 …あ、忘れてた。
 ピーターが、ああそういえば、と手のひらを打つのとは逆に、アーサーは予想外の事態に耳まで赤くなる。まさか人がいたなんて。ピーターしか目に入っていなかったらしいところが彼らしい。
「マリーン!こいつ人さらいですよ助けてください!!」
「叔父さんなんでしょ?」
「ちがいますよこんなやつー!!!」
 ふ、ふ、ふ、と笑いながら、マリーンが木陰から出てくる。白いワンピースにお日様の光が透き通って、少し天使みたいだ。茶色い髪の輪郭が、金色にきらきら輝いている。「よいしょ、」とマリーンはピーターくんを抱き上げてアーサーの手から奪うと、ひょいとすぐ隣に下ろす。それからまだ地面に倒れたままのアーサーに手を差し伸べて、「だいじょうぶですか?」と尋ねた。さっきも真っ赤だと思ったアーサーの顔が、どうしたことか、人間これ以上赤くなれるのかというくらい赤くなって、それから差し出された手を取ろうともせずに慌てて起き上がると、あちこちに着いた土や草を掃った。ゴホンと何度か咳払いをして、いまさらネクタイのゆがみを直してみてももう遅い。手持無沙汰になってしまった手をひょいと上げて肩を竦めながら、マリーンはおかしそうに笑っている。
「これは…その、見苦しいところをお見せしてすまない。」
「いいえ、サー。」
 おもしろかったわ、というマリーンのあけっぴろげの感想に、アーサーは苦虫を噛んだような顔をする。自称英国紳士には、女性の前でコントのような言い争いを繰り広げたことはずいぶんなダメージだろう。もちろんピーターには知ったこっちゃない。
「マリーン!こんなやつと話してると眉毛菌が移りますよ!」
「…移っちゃったの?」
「これは生まれつきです!!」
 普段の通りに話している二人を、アーサーはぽかんと見ていた。まあ仕方のない話だとピーターはちょっと得意なような気がする。マリーンは美人だし、そんな美人とこんなに仲が良いピーターが、モテないおじさんにはうらやましいに違いない。ざ!ま!あ!
「ピーター君よかったじゃない。夏休み初日に、伯父様が来てくださって。」
 すぐピーターには、それがマリーンの助け舟だとわかった。夏休みは明日からだからだ。「夏休み初日になぁんだってこいつの顔見ないといけないんですか!」ありがたくその舟には乗っておく。否定するところは、しっかり否定するけれど。アーサーは夏休みは明日からじゃなかったか?とブツブツ言っている。すかさず「甥っこのスケジュールも把握してねえなんて最低野郎ですよ!」と凶器のような言葉を投下しておくと、ぐっ、と黙った。ざまあ。
「…仲良しねえ。」
「どこかですか!」
 呆れたようにマリーンが言って、まあ、なんて聞き捨てならない言葉だろう!ピーターが自前の眉毛を吊り上げると、おかしそうにマリーンは笑っていた。
「さ、お迎えが来たから帰りなさい。」
 大人の口調だった。
 そんな言い方をするマリーンを初めてみたので、ピーターは思わず、こくりと頷いた。



「…誰だ、あれ。」
 少し離れて二人は歩いている。
 ぽつんと叔父が、十分に丘を下ってから発した問いに、ピーターはすぐ何を訊かれているかわかった。
「マリーンはマリーンですよ。」
 ふんと言ってのけたピーターに、アーサーが呆れた顔をする。
「そういうことじゃねえよ…。」
「ピーター君の手下ですよ!」
 あのなあ、と子供相手にアーサーは心底あきれ顔だ。
「お前気が付かなかったか。ありゃあイギリス人じゃねえ…ちょっとフランス訛りだった。おまけにいい服着てたじゃないか。…こんな田舎の町に、何の用だ?」
 こいつのこういう言葉づかいが気に入らない、とピーターはしみじみ思う。と同時に元気で悪いお口が動き出す。
「別に誰がどこに行こうがその人の自由ですよ!いちいちテメーに許可とらないとでもいけないっつーんですか?」
 確かにそれは正論だった。
「…別に、」
 アーサーが、ぐ、と黙る。
「そういうわけじゃないさ。」
 ちょっと気になっただけだ。
 少しだけ丘を振り返ったアーサーの目に、夕日の赤が映りこんでいて、なんだかきれいだった。









(20120329~)