雨が降っていた。 なみだのひ、そのひは。 マリーンが木の下で歌っていた。最初ピーターにはその歌が何の歌だかわからなかった。聞き慣れない響きの言葉で歌われていたからだ。けれどもメロディーラインで、それを知れた。涙の日、その日は。モーツァルトのレクイエムだ。 どうしてピーターみたいな子供が、そんな辛気臭い曲を(もちろん有名な曲なのだけれど)知っているかと言うと、それはパパの御葬式で繰り返し繰り返し流れた曲だったからだ。売れない音楽家だったピーターの父が好きだったというので、彼の音楽家仲間たちがずっと教会の片隅で演奏し続けていたそうだ。どうして伝聞形かと聞かれると、ピーターの父が亡くなったのは、彼がうんと小さな赤ん坊の頃のことだったからだ。お葬式の様子どころか、父親の顔だってピーターは写真の中の小さな古ぼけたものしか知らないが、しかし不思議なことに、その旋律だけ覚えていた。まだ彼の母親が健在だった頃、二人が住んでいたちっぽけなおんぼろアパートの隣に住んでいた太っちょのベスおばさんが亡くなった時だ。教会の合唱団がそれを歌うのを聴いて、「ピーくんこのおうたしってるますよ。」と小さくハミングし始めたいつつの息子に、母親はそれはそれは驚いた。 「どこでこんな辛気臭い歌覚えたの、ピーターくん。」 レクイエムなんてものが好きだったせいで早死にしたのだと、些か憤慨していた彼女は、夫が死んでからというもの音楽というもの―――その中でも特にその一節には、触れないように気をつけていたので、もちろんその息子がそれらに触れる機会があったとは思えもしなかった。 「おぼえてねーですよ。」 そっくりな眉毛を付きあわせて、母親の方はしかめっ面をし、息子の方はきょとんとしていた。 とにかくそんなわけだから、その歌は随分、ピーターには絵に描いた肉親のように親しみ深く、それでいて“死”そのものを連想させるものでもあった。 暗い歌うたってやがるんですよ、と大人ぶって唇を尖らせて、ピーターは真っ青な傘をくるりと一回転させる。白い傘をさして白いワンピース来て、真っ白な踵の高いサンダル。どんよりと暗い小雨の中、マリーンは重たい灰色をした海の方を眺めて、ぼんやり小さく歌っている。 やっぱりその様子は、少しばかり幽霊に似ていて、ピーターはドキリとする。 「マリーン!」 呼びかけるのに、少し勇気がいった。 なんだか咽喉がカラカラとして、きゅうと思い切り足を踏みしめ、拳を握って、お腹の底を絞るようにしなければ大きな声が出そうになかった。そうすると思った以上に大きな声が出て、ピーターは自分でびっくりする。マリーンの方はピーターのおっきな声が通り過ぎた後で、「ああ、」とぼんやり今気付いた、と言うようにピーターの方を振り返った。やっぱりその目が、海の色を写してどんより曇っているように遠くからは見えて、ピーターは慌てて木の下に駆け寄った。近くから見上げると、やっぱりマリーンの目はいつもの真っ青な海の色、していてかすかに安堵する。マリーンの髪はしっとりと濡れていて、傘をさしていても時々風で横から吹き込んでくる滴を結構な時間浴びていたんだろうとわかる。頬が真っ白になっていて、ピーターはふいに母親の死ぬ前の顔を思い出して、またドキリとした。 「どうしたのピーターくん、こんな雨のなか。」 まったく普段と変わらない頓着しない口調で、けれどもそれはいかにも作られた声音、のような気もする。騙されないぞとピーターは内心腕まくりをした。 ママ具合悪いんですか? そう何回訊ねても、平気よ、のひとことと笑顔とに騙され続けた経験は、彼の心にしっかりと教訓として刻み込まれているのである。 「それはこっちの台詞ですよ!なにやってんですかこんな天気に!」 「知ってるでしょ?」 どうしてかしら、ピーターはゾッとして、思わず俯いた。うつむいた先に見えたマリーンの足は、地面から浮いてもいなければ透けてもいなくて、それなのにどうして、こんなにその顔を見るのが怖い気がするのかしら。 「…人を待ってるのよ。」 マリーンの声じゃないみたいだと、ピーターは思った。思ったけれど心の中だけで、声はひとつも出なかった。 ピータくんはどうしたの、とずいぶん小さな優しい声が、上から彼に訊ねた。ピーターはゆっくり顔を上げて、マリーンを見る。マリーンは穏やかな顔つきで、かすかに微笑してもいた。 思わず左手で、その白くて細い右手を掴んだ。 ぱしっと音がするくらいの勢いで、マリーンが目を丸くする。つめたい、とピーターは呟いて、それから真っ青な空色の目をまっすぐマリーンに向けた。青い傘の下だったから、その目はキラキラ濡れて、青く光るガラスみたいだったこと、もちろんピーターは知りもしない。 「こんなに冷えて!」 ママと喧嘩して雨の中家を飛び出した時、言われた言葉だった。おんなじように散々雨の中を走り回って、やっと息子を見つけた母親にピーターは横っ面を思いっきりピシャリとやられて、それから思いっきり抱きしめられた。 馬鹿ねえ、あんた、ほんっとに馬鹿…。 「馬鹿ですね、あんた。ほんとに馬鹿ですよ…。」 傷つくなあ、とマリーンは笑った。ぎゅっと手を握る力が強くなったようだった。 「馬鹿の手下が雨の中風邪引くんじゃないかと思って見に来て正解だったですよ!」 ぽこぽことピーターは頬を膨らませて見せる。嘘だ。ほんとは置きっぱなしの双眼鏡を取りに来たのだ。 「いきますよ!マリーン!」 どこへ、とマリーンが言った。なんだか迷子みたいな言葉の響きをしていた。 「どこってもちろんマリーン家ですよ!早く着替えてお風呂入ってあったかいもん飲んであったまらないと風邪ひきますよ!馬鹿でもちょーじかん雨に濡れれば風邪引くんですよ!」 大人なのにそんなことも知らないんですか、と口を尖らせたら「そうね、」とマリーンがわらった。ずっと人間らしい響きで、やっぱり彼はほっとする。繋いだ手はなんとなく放さなかった。 |