「ほわぁ、」 という間抜けな声が、引いていたはずの手をいつの間にか引かれて辿りついたマリーンの家というのは、町一番の御屋敷、つまりは町長さんのお家だった。昔は都会で議員もやっていたのだという町長さんの家は、この田舎の港町にからはちょっと浮いてしまうくらい立派なのだった。 「マリーン金持ちだったんですか…。」 「おじさんがね。」 「うげえ、」 なんとなくその境遇は自分と重なるところがあってピーターは顔を顰めた。それで彼女がそのおじさんのこと、大嫌いなら話は別なのだけれど…?ピーターがマリーンを見上げると、訊ねようとしていたことが繋いだ手から伝わったのかしら、とってもすてきなおじさまよ、とマリーンが肩を竦める。嫌いだ。 ただいまとマリーンが扉を開けると、パタパタとメイドさんが奥から駆け出してきた。アーサーの家でだって見たことがない(“お城”の方にはいるらしいと聞いてはいるが、ピーターは祖母が暮らすというお城に行ったことはなかった。)それに目を丸くするピーターくんを余所に、メイドさんは目を丸くしている。 「まあお嬢様、そんなに濡れて!」 まだマリーンとそんなに年が変わらないように見えるメイドさんはかわいそうなくらい大慌てだ。どうやらマリーンしか目に入っていない様子に、ピーターがむっとして声を上げようとした時だ。 「私もなんだけどね、こちらの紳士もなんとかして差し上げて下さらない?」 はい初めまして、と見事なタイミングで前に押し出された。メイドさんが目をぱちくりとさせるので、胸を張って元気に御挨拶。 「初めまして!ピーターくんって言うです!」 ちなみに気に入らない名字は名乗らない主義だ。 「まあ、小さな紳士さんですね。」 客間のシャワーを用意しましょうね、と言われてそれからまるで台風みたいに押し寄せてきたもうひとりのメイドさんの手によってふかふかのタオルに包まれたピーターはマリーンと離れ離れにされてしまった。 「良い子にしてるのよぉ、」 マリーンはひらひらと手を振って廊下の向こうへ去っていく。客間はこっちですよ、とメイドさんに二階への階段を登らされそうになってちょっと頼りない声を上げたピーターに、マリーンが廊下の向こうからひょいと振り返って人の悪い笑い方をする。 「それとも一緒にお風呂入るぅ?」 ふざけんな。 自他共に認める立派な紳士であるピーターくんは、もちろんキビキビ階段を登り、メイドさんのお手伝いもキッパリお断りし、一人でシャワーを浴びる間にバスタブにお湯を張って百まで数えた。お風呂にアヒルがついてないなんて、町長さんのお家も大したことはない、というのが感想だ。 それから魔法みたいに乾かされていた服に袖を通してあったかいミルクを頂いている間に、着替えたマリーンが階段を上がってきた。白かったワンピースは水色になっていて、白い襟と細いベルトがついている。なぁに家の中でおめかししてんですか、と呆れた感想を口に出したピーターに、「誰かさんのせいでね。」とマリーンがやっぱり悪人みたいな笑い方をする。 メイドさんはずっとドアのところに立って控えながら、二人の会話にくすくす笑っていた。 「くぉーらッ!ったくいつまで経っても帰って来ないと思ったらお前は!」 「ギャ―――!!出た―――!!!!」 階段を下りて応接間とやらに通されたピーターの前に、出た、立派な眉毛が。 それはもうびっくりしたピーターは思わずマリーンの後ろにサッと隠れた。なんだってここに、こいつがいるのだ!マリーンが呼んだのかとうらみがましく視線を上に向けると、マリーンは肩を竦めてお手上げ、のポーズだ。違う、と言うことだろうがそれなら一体どういうことだ。 「お前はまた!人をゾンビみたいに言うんじゃない!!」 「ギャー!!なんでここにいるんですかクソ眉毛!!…ハッ!さてはストーカーしてやがったんですねこの変態!!」 「おまっ…!叔父を捕まえてストーカーとはなんだ!」 「ッギャー!マリーン助けるですよ!!」 「え〜…、」 いつもの騒動、そこに「はっは」という常ならざる笑い声が紛れこみ、ピーターはきょとりと悲鳴を止める。アーサーの方はコチンと顔を赤くして固まり、マリーンだけが飄々としている。口髭を生やした太っちょの紳士が、愉快そうにソファで笑っているのだ。 「仲がよろしいんですなぁ。」 「…お見苦しいところをお見せして、その、…申し訳ない。」 いえいえと気持ちよ下げに紳士は首を横に振り、「ピーター君、こっちへおいで。」とソファを叩いた 「キャンディもあるよ。」 「…子供扱いしないで欲しいんですよ。」 名乗った覚えのないおっさんに馴れ馴れしくピーター君などと呼ばれるのは不愉快であるし、そもそも自分は飴に釣られるほど子供ではない、のだが机の上に並べられた缶入りの色とりどりのキャンディは、どこからどう見てもかなり美味しそうだった。誘惑に耐えてのその生意気なその発言に紳士はやはりはっはと笑い、アーサーは赤くなっていた顔をさらに赤くして怒っているがもちろんピーターは気にしない。マリーンを紳士と自分の間にまず座らせて、それからさっさと、席を陣取る。 「あんた誰ですか…知らないおっさんからお菓子もらったらだめなんですよ!」 「おやこれはすまないね。私はウェリントン。この町の町長をしているよ。君の友達の伯父さんさ。」 そう言ってマリーンを二重あごで指してパチリと片目をつぶって見せる。 「なるほど!僕の名前はピーターですよ!」 まあ頼まれたらよろしくしてやらないこともないですよという台詞は、アーサーのアイアンクローによって途中で途切れた。 「あだだだだだだ!」 「お〜〜ま〜〜え〜〜は〜〜〜…!」 地を這うような声音は、今にも魔王を召喚できそうだ。 仲がよろしいですな、と先ほども聞いた台詞に続いて、また同じような謝罪が繰り返されるのを横目に、町長さんが出す菓子なら安全だろうとピーターは一番大きな赤と白のキャンディーステッキに手を伸ばす。目線でアーサーが『はしたない!』と訴えかけてきているのは百も承知で流した。 「はっは、元気があってよろしいじゃありませんか。男の子はこれくらい腕白でなけりゃいけません。」 「…躾がなってなくて…お恥ずかしい限りだ…。」 恥ずかしくて死にたい、とアーサーが心底思っているのが手に取るようにわかったピーターだが、やっぱりそれこそ知ったこっちゃない。ハッカと苺のバランスが絶妙なステッキを齧りながら、“大人”同士の会話をしっかり右から左へ聞き流す。 「しかしカークランド卿が甥子さんとこの町に滞在しておられると知っていたら、もっと早くにお招きしましたのに。」 アーサーよりもふたまわり以上も年上の紳士が、彼のことを「Sir」と呼ぶのがなんだかとっても嫌な感じでピーターはひっそり立派な眉をしかめた。それを当然のように受けている叔父も、もちろん気に入らないものだ。ピーターの敵、校長先生に神父様、それからこの町長さんの態度を見てもわかるに、“カークランド卿”はこの町に多額の寄付をしている“エラい”人なのだ。気に食わない。 夕飯を一緒にどうかという誘いを律儀に断って、アーサーは立ちあがった。またぜひいらして下さいと言う町長さんに、またぜひと似たような返事をかえすのを忘れない。 「いくぞピーター。」 だいたい町長さんとその姪とメイドさんたちが、揃って玄関先までお見送りしてくれるというのは、尋常ではない。それくらいピーターにも分かっている。またねぇ、ピーターくん。とメイドさんたち。キャンディーの包みを持たせてもらって、ピーターはちょっとばかりご機嫌だ。 「また来ておくれ。」 この子も喜ぶから、とマリーンを指して、それから町長さんはおかしそうに笑ってみせた。 「しかしのお友達がこんなに小さな男の子だとはね。」 「…?」 がきんちょ扱いされたことより、聞き慣れない名前が気になった。あーあ、とマリーンが溜息を吐いている。 「おじ様ったら、私の名前は秘密にしてねって言ったでしょう。」 「おっと、」 てへっと星を飛ばして見せる辺り、町長さんはなかなか御茶目らしかった。 「マリーンって言うですか!」 「マリーンだって?」 「おっと、じゃないわよまったく。」 「か、いい名じゃないか。」 四人の台詞はそれぞれ同時で、だからこそこんがらがってお互いよくわからなかった。アーサーのほっぺたがなんとなく赤いのはもちろん華麗にスルーするピーターくんだ。 なんだか急に、マリーンが知らない人になったような気がする。 海から来る幽霊のような、幻のような気がしていたのに、マリーンには当たり前だけれど帰る家があって、お菓子を焼いてくるキッチンがあって、それから家族がいて、それからマリーンじゃない、本当の、名前があるのだ。 どうしてかしら、それこそなんだか、悪い冗談なような気がして、ピーターは何とも言えない居心地の悪さに眉を潜めた。 行くぞと引かれた腕を無視して、ピーターはマリーンのところまで駆け戻る。どうしたの、と訊ねられてしばらく言葉がでなかった。 「…マリーン。」 とは呼ばなかった。そう呼んだら、なんだかマリーンはマリーンじゃなく、もちろんマリーンはなのだが、そういうことじゃない。ピーターの知っている“マリーン”が、どこにもいなくなるような気がした。 「なぁに、ピーターくん。」 やっぱりはマリーンだったらしい。ちゃんと返事をして、ピーターと目を合わせてくれた。 「…またピーくんの船に来るですか?」 それはきっと、二人にしかわからない秘密の会話だったと思う。 「もちろん。」 と朗らかに笑った後で、小さな声でマリーンは密やかに囁く。 「…まだしばらくは待つつもりよ。」 「……さては男ですね。」 「…生意気。」 マリーンに鼻をつままれて、ピーターはなにすんですかと言った後で、お互いニヤリと笑い合った。会話においてけぼりと喰らった太っちょと眉毛が毛虫の紳士二人が、なんのことやら、と顔を見合わせている。 |