思いっきり泣いたので恥ずかしい。 樹の上の指定席ではなく、その下の草はらの上に腰を下ろして、ピーターは幹に体を預けている。久しぶりに大声あげてないて、体中くたくただった。どこか芯のほうがぽっぽと燃えている。マリーンの持ってきていたバスケットの中の、ティーポットの紅茶と、杏のマフィン。泣いて疲れたピーターくんは、恥ずかしさに口を開きづらいのも相まって、マリーンに勧められるまま、もう三個も食べてしまった。 四個目のマフィンをもぐもぐと口元に持っていったまま噛み続ける。 チラ、と横を見たらマリーンはまだ一個目のマフィンを食べながらなんてことないように海のほうを見ていた。なに、とふいに顔を向けられて、サッと逸らす。見えないけれどわらった気配がした。からかわれているような感じはしなくて、それにピーターは少しほっとする。 二人揃って足を投げ出して、お行儀が悪い、と怒られそうだ。 でももういいのだ。そもそもピーターは行儀作法なんて知ったこっちゃないし、もう誰にも頼らずに生きていかなければならないのだと、母親が死んだ時にも思ったことを考えていた。けれどもそれは、どうにも暗くなりきれず、さっきの泣いたあとの余熱が、その考えを 一度目の決心よりもなんだか幼稚なものにしているような気がした。 「もう一個食べる?」 聞かれてピーターは、億劫に首を横に振った。 流石にお腹いっぱいだ。 そう、とマリーンは笑って、まだ半分も残っていた自分の手の中のマフィンを一口に口の中へ放り込むと、がばりと元気よく立ちあがった。もご、とリスみたいな口をした、マリーンがピーターを見下ろしている。 「じゃあ行くわよお、ピーターくん。」 とてもじゃないけど付き合ってられない。半眼でどこへですかと呟いたピーターの手を、マリーンの手がグイと引いた。抵抗するのも億劫で、引かれるままに立ち上がると、そんなに疲れていない気もした。ふわふわとどこか体が軽い。 「ほら、それ持って。」 言われてマリーンが目で指したぼろを眺めるが、やっぱりピーターの目はどよんとしていた。 ふう、と一度溜息を吐いて、マリーンがさっさとそれらをかき集めて持ち上げる。きれいなワンピースが汚れる、と咄嗟に思った。マリーンは毛ほども気にしちゃいない。 「私のマフィン食べたのだから、」 マリーンの目の色も、髪の色も、ひとつだって似ちゃあいないのに、どうしてかしら。有無を言わせない明るいその響きは、似ている。 「手伝いなさい、ピーターくん。」 どうして。 思わずこてんとピーターは頷いた。ぱちりと瞬きを一度すると、目が痛い。ちょっと光の戻ったその目を見て、やっぱりマリーンは誰かさんみたいに笑うと、ずんずん歩きだした。慌ててその後を追っかける。 「どこ行くんですか!」 「小川よ。」 応えてくれないかな、と思ったけれど素直に返事があった。なんで川、と眉を顰めたのが振り向かずにわかったのかしら。マリーンが愉快そうに笑う声がした。 「なんでってそりゃあ、」 おまけにマリーンは、どうやら人の考えていることも分かるらしい。 「夏休みだからよ!」 そこからもう本当にひどいお祭り騒ぎだった。 誰もとおりかからなくてよかったとすら思う。丘の背後を流れる細い小川は、草はらの隙間サラサラ光っている。マリーンは途中から駈け出して、きれいなサンダルをポオンポオンと蹴り飛ばしながら走った。引きずられてピーターも走った。ヤッホー!とマリーンが笑う。ピーターはターザンみたいな声を上げた。もう何をするのか分かった。 二人は同時に、ざぶんとくるぶしぐらいまでの小川に突っ込んだ。 水晶玉みたいな、しぶきが上がる。さっきの雨のせいなのか、いつもよりずっと透き通ってるみたいだ。川底の砂利が舞い上がって、慌てて小さな魚が逃げ出した。それがおかしくって二人でお腹を抱えて笑った。水をかけ合って遊んで、頭の先からつま先までべちょべちょになった。この前の雨の日より、立派な濡れ鼠だ。それからマリーンは襤褸布たちを丁寧に水に沈めて、足で踏んだ。二人でいっしょに、ワン、ツーワン、ツーと掛け声を揃えてやるとそれすらもおかしくって、しまいになにを言ってるのかわからないほど笑った。 「まだやるですかぁ!」 足踏み続けてへとへとだ。でもやっぱりおかしくって笑いながら訪ねたら、「あと一万回!」というめちゃくちゃな返事が帰ってきてやっぱり笑った。 「もー無理!へとへと!」 昼ごはんの時間はとっくに過ぎていた。 「まったくこれくらいでバテるなんてマリーンも年ですね!」 「お子様と比べたらね。」 ふふんと笑ってマリーンが澄ましている。 二人は水を吸って重たくなったぼろを二人で両側から引っ張って捩って叩いてやっと水を絞って、それから服を絞って、マリーンは髪を絞った。ピーターくんは帽子を絞った。絞る前にひっくり返したら、バケツをそうしたみたいに水がでてきて、魚まで出てきて大笑いした。しぼってもまだ重たいぼろを二人で担いで丘を登って、木の枝に干した。 そよそよと気持ちのいい風が吹いている。道とは反対側の木の下に大の字に寝っ転がって、笑いもやっと引っ込んで二人は心地よい疲労感に溜息を吐いている。 「つっかれたー…。」 「…お腹すいたですよ…。」 「まだマフィンあるよ。」 最後の一個だった。どうぞと言う目をしているマリーンをフフンとみてから、えいやと見事なカラテチョップでピーターはマフィンを二つに一刀両断した。「クロオビ!」と拍手するマリーンと半分このマフィンは、さっきよりおいしいようだ。 さやりさやりと風に揺れる木漏れ日と、ぼろ布、それから空を眺める雲を眺めていたら少しうとうとした。 1時間も寝ていないと思うのだけど、ピーターが目を覚ましたら夏の日差しに服はすっかり乾いていて、マリーンが隣に座って、澄まして繕いものをしていた。乾いたワンピースが、風に揺れてる。ピーターが針と糸を、“ウロ”に隠していたのをもちろんマリーンは知っていたのだ。 「ピーターくんてば、この針、漁師さんが網を直すのに使うやつよ。」 太くって使いにくいったら、とマリーンは笑って、「でも糸が通しやすくっていいわね。」とも言った。 乾いたぼろ布は、暗くて陰鬱そうな灰色だったのに、今では狼の毛並みみたいな銀色をしていた。赤い糸が、ジグザグと穴を塞いで、ちょっと宝物の地図みたいに見えた。布の塊は、とっくに繕われて、クッションに戻っている。ぐるぐると螺旋を描く縫い跡が、キルトの模様の上を走って、こっちは迷路みたいだ。 そこにあるのはもうぼろ布でもその塊でもなかった。 「…わあ、」 何を言ったらいいかわからなくて、ピーターはそれだけ言った。 「わあ…。」 マリーンがくすりと笑って糸を切った。 「ほらできた。」 ピンと両手で伸ばして示された毛布の隅っこには、赤い帆船が刺繍してあった。 「シーランド号、」 指先でちょっとその刺繍に触れて、ピーターは体中をぎゅっと縮こまらせた。今自分は、世界で一番。 ターザンみたいな声を上げながら、ごろごろ寝っ転がって丘を転がり下りていった後で、ごろん、仰向けになって見上げたら丘の上でマリーンが愉快そうにわらっていた。 マリーン。 いい名前だなぁと思った。 |