いつもピーターが腰かける木の“また”にクッションを取り付けた。毛布はお日様にきらきら銀に光って目立つので、マストみたいに枝にひっかけておくのは夜の航海の間の毛布にくるまらなくてもいい時間だけにすることにした。昼間のうちは小さく畳んで、背もたれにする。そうするとピーターの特等席は、どんな一等船にも負けない最高の客室になった。 洗濯物と繕いものと、それからマフィンと紅茶のお礼に、ピーターはマリーンを樹の上に招待してあげた。 誰かを樹上にあげるのは、初めてのことだ。 「海がよく見えるわねえ。」 と呆れたみたいにマリーンが言い、ピーターはムンと胸を張った。 夕陽が海に沈んで、この時間、海はまるで表情を返る。オレンジ色の水面に、太陽が落ちる。ジューッと海が沸騰する音が聞こえそうだ。パッと頭の中に、フライパンに、バターでジューッっと焼かれる魚が思い浮かんでピーターは首を振った。すっかり笑って忘れたようにも思うが、彼はもう帰らないったら帰らないと決めていたのだ。ここにも毛布もクッションもあるし、夜は樹の上で眠ればいい。朝は小川で顔を洗って、埠頭で魚を釣ろう。計画の通り、サメのソテーを作るのだ。 ぐう、とお腹が鳴った。 もう樹から降りたマリーンが、ひょいと見上げて少しわらう。 「そろそろ帰らなくちゃね。」 そう言えばマリーンは、なんにも訊かなかったな、と今になってピーターは思った。聞いて欲しかったような気もするし、けれどもう時が経ち過ぎた、という気もする。せっかく気分が回復したのに、わざわざあのみじめな体験を思い出して、口に出して誰かに聞かせるというのは、どう想像しても気持ちが良いものではなかった。それにもう、ピーターにはそれらすべてがとっくの昔に過ぎたことのように思えた。 たからものは蘇ったのだ。 「ピーターくんは帰らねーですよ。」 「どうして?」 大泣きしたの、見ただろうに。 不思議そうに首を傾げるマリーンに、ピーターは呆れてしまった。普通あれだけ子供が泣いていたら、家か学校かで何かあったと察してしかるべきだ。 「お腹すいたんでしょ。」 「クッキーがありますよ!」 「こないだの雨で、溶けてカビちゃったじゃないの。」 そうだった。忘れていたことを思い出して、ピーターは視線を下げた。ぎゅるう、と情けなくお腹が鳴る。 「マ、マリーンの家は…、」 「急なお客様にお出しするディナーはありません。」 実に素っ気なかった。ケチ!と叫んでもマリーンはどこ吹く風だ。一度自覚すると、お腹の虫はますます激しく自己主張を始める。そもそも今日の事件は、朝一番に起こったものだったから、朝ごはんだって食べていない。ピーターが今日口にしたものと言ったら、マリーンの持ってきたマフィン、よっつと半分、それだけだ。 「…帰りたくない。」 でもお腹すいた。 むくれたまま呟くと、何を言ってるんだか、と言う目で見られた。 「帰ったらご飯があるでしょ。」 「…帰ったらアイツもいるですよ。最悪ですよ。」 「昨日と同じじゃないの。」 「昨日も、その前も、その前の前も!ですよ!」 「じゃあいいじゃない。」 あったり前の顔してマリーンが言うので、今度はピーターの方が、何言ってるんだ、という顔をする番だった。 「最悪なんでしょ。それ以上悪くなりっこないわよ。」 きょとんとした。 めちゃくちゃだったけれど、そう言われればそうな気もした。 「何があったか知らないけど、せっかくの晩ご飯を嫌いな誰かさんのために我慢するなんて手はないわ。」 「…ピーくんはなんにも悪くないのに、謝れとか、色々煩いに決まってます!」 「きっと心配してたってうるさいわよ。」 「それこそ余計なお世話ですよ。」 そうね、とマリーンがわらった。透き通ったような笑顔だった。 「ピーターくんが悪くないなら、謝らなくってもいいじゃない。ただね、なんでピーターくんが怒って、悲しくって、泣いたのか、言わなきゃきっと、おじさんには一生分からないわよ。」 話したってわかるまいと思ったけれど、ピーターは黙っていた。やれやれとマリーンは肩を竦めて、「おばさんはとっても心配して、それからピーターくんにすまなかったなって思ってるんじゃない?」 マリーンも何度か出会って、マギーおばさんを知っていた。ミルクやガラクタをピーターくんに分けてくれるおばさんを、気の良い人ね、とピーターくんとおんなじように気に入っていた。マギーおばさんはきっと、まだ帰ってこないとおろおろしてるだろう。ひょっとしたら、白いエプロンで顔を覆って泣いてるかも。 そう考えると、仕方がないので帰ってやろうかと言う気がしてきた。きっとそうだという気もする。 おばさんは、ぼろの毛布とクッションが、どんなにピーターには必要で貴重な、素晴らしいものであるのか知っていたのだ。ちょうだいとせがんだ時に、おや、と眉を上げて嬉しそうにしてから、「そうですね、ではピーター坊っちゃん、ひとつ頼まれてくれませんか。」 朝の新聞を取りにいくことと台所の掃除。普段なら頼まれたって面倒くさいなあと思うそれらも、その時はわくわくしたものだ。その間におばさんは、クッションの綻びを繕う準備をしてくれたのだ。実際その針と糸が活躍する前に、彼のアーサーおじさんのせいで、すべてはゴミ箱行きになったわけだが。おばさんはアーサーを止めようとしたに違いない。けれどもアーサーにとって、マギーおあばさんは元・使用人で、マギーおばさんにアーサーおじさんは元・雇い主であり、仕事を止めて家族もいない家に好き好んでお金を払って泊まりに来るお客様なのだ。どんなにおばさんが、それはピーター坊っちゃんの、と説明したって、あのアーサーに通じるわけがないだろう。ちょっと考えればピーターでもわかる。でもおばさんは、きっとアーサーを止められずに、ピーターを泣かせて、家を飛び出させてしまったことに、責任を感じているのに違いない。 そう考えると、胸のあたりがどんよりと苦しくなった。ピーターは自分が思っていたよりも、物静かで、少しばかりお肉の付き過ぎた、皺の多い、おばさんというよりおばあさんの域に差し掛かろうとしているあのマギーおばさんのことが好きなのだとわかった。 「…あくまでおばさんのためですよ。」 空腹に負けたわけでも、アーサーに怒られるのが怖いからでもないということを強調して、ピーターは顔を上げた。前者は強がりだが、後者はもちろん本音だ。マリーンがそれでこそ英国紳士とわらうと、二人のお腹が同時に鳴って、間抜けに響き渡る。 「……早く帰りましょ。」 「晩ご飯なんですかねえ。」 |