いつも通り、ピーターが丘の上へ昇ってくると、マリーンはもう来ていて、いつものように木陰に立っていた。今日は青と白とのストライプのワンピースだ。今日も暇ですねえ!というピーターのご挨拶を軽く流して、マリーンが爆弾発言をした。 「ピーターくんのアーサーおじさんが真っ赤なバラ持って家に来たわよ。」 家で騒動から早一週間、未だおじさんとは冷戦の最中にあるピーターにマリーンのその台詞はは、Socking drop a bomb!だった。真っ青な目玉を落っことしそうにして樹上から見下ろしたピーターを見上げて、マリーンがしれっとなんでもないことのような顔をしている。 「ハアア?」 たっぷりマリーンの顔を見て黙った後で、ピーターは口元をひきつらせながら口を開く。 「アーサーの野郎、マリーンのおじさんみたいなのがタイプだったんですか…。」 道理でお嫁さんが来ないわけです、いや、まああいつの場合性格に相当難ありなんですけど。なんて呟くピーターに、マリーンは何言ってるんだかとあきれ顔だ。 「なに変なこと言ってるの、ピーターくん。」 それはもちろんそのバラが、マリーンのおじさん宛ではなかったということを示している。 「はっ!さてはメイドさんか!メイドさん萌なんですか!?」 「確かにエリーもケイトもかわいいけど外れよ。」 「お、おじさんの奥さん!」 「おじさまの奥さまなら亡くなってるわよ。」 じゃあ誰だ、となんとなく見えかけている答えを否定するべくうんうん頭を秘めるピーターに、私よ私、とマリーンが呆れ声を出す。 「どういうことですか!」 「さあ?偶然にも花屋もなにもないこの田舎の港町から隣町へ所用で出かけた折り、お邪魔したお屋敷のバラがあまりにも美しかったものだから褒めたらえらく喜ばれた上にどうぞとたくさんいただいてしまって、たしかに褒めはしたが花なんて男の俺が持っていても仕方がないし、かといってステイ先のマギーおばさんに渡すというのは少々あらぬ誤解を招きそうだがロンドンならまだしもこんなド田舎の港町に女性の知り合いはいないしどうしようかと困っていたところ、ピーターの面倒を見てくれていてなおかつよくしてくれている町長の姪子さんでもあるお嬢さんのことを思い出したので、なんとなく、深い意味はなく、散歩のついでに、持ってきただけだそうよ。」 もうちょっと言い訳は長かった気がするけど忘れちゃったわ、とマリーンが肩を竦め、ピーターは思いっきり顔を顰めた。 なんともまあ、あれだ、気分わりい! 「…どうしてそういうことになるですか…?」 「さあ?」 ケラケラとなんでもないようにマリーンが笑う。笑いごとじゃない!と思うのだが、どうなのだろう。ひょっとしてまんざらじゃない、だなんてそんな! 心底趣味悪いなおいという顔をすると、マリーンが「変な顔ねえ。」と感心した声を出す。 「どうするんですか!」 「どうするもこうするもどうもしないわよ。きれいなお花を捨てるのももったいないからって卿がくれただけでしょう。」 Sir、という響きがマリーンの口から出ると、なんだかとてもちぐはぐな気がする。 「あんた馬鹿ですか!?にぶいですね!」 「にぶくていいのよ。」 ピーターの口の悪さに慣れっこのマリーンはにっこりとする。 「…そのバラどうしたんですか。」 なんだか負けたような気分になって、むっつりと尋ねると、「まあきれい、きっと叔父も喜びますわって言ってエリーに渡しといた。」しれっとした顔でマリーンは応えた。ますます負けたような気がする。 「アーサーの顔、どんなでしたか。」 つい、興味が勝った。 「口ポカン、と開けてそれからう、とか、あ、とか言ってたわね。それから右手と右足一緒に出して帰ってった。」 半分くらい聞いた辺りでもうダメだった。ニヤリというマリーンの笑い顔に、ギャーと笑い声を上げて笑って、ピーターなんて思わず枝から落っこちかけた。聞く人が聞いたら眉を顰めるかもしれないが、ピーターにとっては最高だった。これだからマリーンって好きだ。 ひとしきり笑っていると、町へ向かう小道を、遠くから誰かが歩いてくる。 ふいに笑いを引っ込めて、マリーンがその人影を目を眇めて眺めた。まだ笑いの余韻にお腹を震わせながら、ピーターは途端に静かに、透き通ってしまったマリーンの横顔を見詰めた。潮風が吹いている。木陰がザヤザヤと音を立てて、不思議に静かだ。それは黒い帽子を被った郵便配達だった。じっと見詰められているのに気がついていたのだろう。やあ、と軽く帽子を取って二人に挨拶をすると、「今日はお嬢さんに手紙はありませんよ。」と笑ってそのまま通り過ぎていく。母親がいつもやっていたように、お疲れさまなのですよ、と声をかけて、それからピーターはマリーンを見た。 なんとなく、しぼんだみたいだ。 「…マリーン、アーサーに乗り換えるのだけは、止めといた方がいいですよ。」 なあに、それ。と力なくマリーンがわらう。それでも笑ったから、それでいいや、とピーターは考える。いつかの雨の日、マリーンはくすりとだってしなかった。海の色をした青い目は、どこか遠くを見ている。それよりなにか、おもしろいこと、ないか。マリーンの見ているどこかのなにか、忘れるような、おもしろいこと、なにか。 ふと町の方を見やって、ピーターはげえ、と顔を歪めた。 アーサーがきょろきょろ周りを気にしながら、坂を登ってくるのだ。こんなに暑い夏の日差しの下で、シャツのボタンはきっちり一番上までしめられている。 「うげえ!」 大声を上げたピーターに、びっくりしてマリーンが振り返る。アーサーもピーターの大声に、びっくりして、立派な眉毛を浮き上がらせたところだった。ちょっとした沈黙があって、ぷっとマリーンが吹きだす小さな音。驚いたポーズのまま固まっていたアーサーが、かわいそうなくらい赤くなる。 「うげえとはなんだ!」 「うっさいですね!それ以上近づくとケーサツ呼びますよ!マリーンへのストーカー罪で!」 そう、なにせ一週間、冷戦は続いている。 アーサーは否定したり怒ったりと忙しいが、マリーンは相変わらず笑っている。よかった。わらった。ピーターは少しほっとしながら、あの役に立たなさそうな眉毛も、たまには役に立つんだなあと、ほんのちょっと感心する。ほんのちょっとだけ。 「ピーター、いい加減にしないか!いったい俺がお前に何をしたって言うんだ!」 「それがわかんねーなら一生ピー君とは口きけねえですよ!」 金色毛虫の眉毛は、ちょっと役に立ったところで、しかしやはり煩わしい。ぴょーいと軽く枝から飛び降りて、ピーターはマリーンの手を取った。 「マリーン!気分が悪くなるから向こう行くですよ!」 ええー?と言いながら、手を引かれるのをマリーンは拒まない。繋いだ手を、ちょっと自慢するようにアーサーを見ると、思ったよりも真面目な顔で、眉を潜めている。てっきりもう少し、悔しそうにするかと思った。 きょとんとするピーターに、アーサーはあくまで静かに、努めて厳めしくみせるように、低い声を出す。 「ピーター。あんまりを困らせるんじゃない。」 、と言うその言葉の響きはけっこうな不意打ちで、ピーターは思わずドキリとする。今ピーターが手を繋いでいるのはマリーンなのに、どうしてそんな知らない人みたいな名前を出すんだろう。とっさに押し黙ってしまったピーターに、まるで教師のような物言いでアーサーは言葉を重ねようとする。 「…さんもこんな子供に付き合う必要は、」 「マリーン。」 びっくりするほどマリーンがきれいに笑って、それに驚いてしまったのはもちろんピーターだけじゃなかった。アーサーもぽかん、と、間抜けに口を開けている。 「私の名前、マリーン。マリーンよ。」 春の汀の漣みたいにマリーンが陽気に笑って、おかしそうにくるりと回る。スカートの裾が翻って、少し辺りに光を撒き散らすみたいだった。ぽかん、とする。逆にアーサーはぎゅっと眉をしかめて口を結んでいた。 「 」 赤くなった顔で、閉じた口をもう一度無理やりこじ開けるように、それでもしつこく、アーサーがと呼ぼうとしたのがピーターにもマリーンにもわかった。そういう男なのだ。明るく笑い声を上げて、マリーンがピーターの手を引いた。 「行こう、ピーターくん。」 マリーンは走るのが結構早い。 ぽかんとするアーサーを置き去りにして、二人揃って勢いよく駈け出した。今日は踵のない靴で正解ねと息を切らしながらマリーンが笑って、ピーターは走りながら少し振り返った。 木の下にはアーサーが、まだぽつりと立っていた。 |