ピーターの夏休みは、アーサーという叔父の存在を除けば、概ねすべてが順調と言っていい。シーランド号の設備は充実の一途を辿り、マリーンはただの“手下”ではなく、宿題の分からないところを教えてくれる優秀な“手下”だということが判明した。もうおじさんが来て二週間が経つから、あと一週間の辛抱だ。そうすればうるさいおじさんはロンドンへ帰って、夏休みも終わってしまうけれど、また気ままな毎日が始まるだけだ。虫の標本ももうすぐ完成する。青い翅のちょうちょが欲しいな。明日は岬の洞窟まで探しに行ってみようかしら。 明日の探検の計画を立てているうちに、うっかり眠ってしまったらしい。 夜中にふいに目を覚まして、ピーターは起きあがった。咽喉が渇いた。窓の外には細い三日月が出ていて、静かな、少し寝苦しい夜だ。おばさんはもう眠ってしまっただろうか。冷たい牛乳が飲みたいな。そんな風に考えながら、眠たい目を擦ってピーターは階段を下りた。静まり返った家に、ぴたぴたと裸足の足音だけ響いた。 暗い廊下を開けて、台所の扉を押し開け、それからピーターはぎょっとした。真っ暗な台所に、アーサーがぼんやり、座っていたのだ。 「…ああ、」 おもむろに顔を上げて、アーサーが首を傾げた。 「どうした。眠れないのか。」 怒っても苛立ってもいない静かなアーサーの声を聴くのは、久しぶりなような、初めてのような気すらした。初めて会った時から、この叔父はどこか緊張しているような、固い声音で話した。マリーンの前ではともかく、家では極力口をきかない冷戦状態を殊更に保っているピーターは、一瞬返事に詰まって黙った。ただ首を横に振ると、そうか、とやはり妙に静かな返事がかえった。なんとなく気不味くて、早足にアーサーの隣をすり抜けると、蛇口を捻った。もう水でいいや。早く喉の渇きを何とかして、さっさと部屋に戻ろう。 ぬるい水を飲むピーターをぼんやりと見つめながら、アーサーは寝ぼけたような顔をしている。じっと見られて居心地が悪い。ピーターが飲み終わるタイミングを見計らったように、アーサーが小さく口を開いた。 「…碌に口もきいてもらえないほど、お前は俺が嫌いなのか。」 なにを今さら。その言葉が顔に出ていたのだろう。どこか怪我でもしたみたいに、アーサーが奇妙な笑い方をした。パタリとシンクに蛇口から一滴、水が落ちる音。 「あんただって、嫌いでしょう。」 その奇妙な間を埋めたくて、ピーターは口を開く。今水を飲んだばかりなのに、不思議と喉が渇いている。 「なんでそう思うんだ。」 びっくりしたような、ともすれば悲しそうにも聞こえる声音で、ピーターは調子が狂う。なんだって昼間みたく、怒鳴り返して来ないのだろう。どうしてそんな当たり前のこと、訊くんだろう。家族全員の反対を無理やり押し切って出ていった、勝手な姉が勝手に死んで勝手に残した、生意気な子どものことなんて、どうして好きでいられるだろう。今でも文句を言うじゃないか。散々好き勝手して面倒ばかり押し付ける姉だと。その“面倒”が何なのか、わからないほどピーターは子どもではなかった。 あの時姉を止めていたら、こんなことにならなかったのに。 そう言う。 「ママが出ていった時、「止めればよかった、と今も思ってるよ。」 決定的な決裂、を招かないはずのない言葉だった。 「止めればよかった。そうすれば姉さんは知らない土地で苦労して死ぬこともなかったろう。」 そうしてピーターも、生まれなかった。 ピーターの小さな胸の真ん中に、ゾワリ、となにかおぞましいほど熱く、そうして冷たい塊が滲みだす。胸の中心が詰まって言葉が出ない。自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、なにもわからないほどその塊はむくむくと大きく膨らんで、ピーター自身を呑みこんでしまうように思えた。それはとても、こわいことだ。そうしてそれ以上に、それを怖いとも感じなかった。それは海原の小舟を襲う嵐のような、剥き出しの荒々しい暴力そのものに似ていた。 「…俺はまだ15のガキで、」 けれどその、どこかぽつんと寂しげな言葉が、ピーターの咽喉を迸って飛び出しそうになった塊を、押し留める。 「なぁんにも、してやれなかったんだ。」 アーサーの緑の目は、どこか翳って、遠いところを見ていた。なにか昔の大事なものを、なつかしむような目、していた。ピーターははっと息を呑む。やっと呼吸ができた気がした。塊はストンと落ち込んで、ただ胃のあたりでモヤモヤとしている。吐き出してしまいたいのに、切欠を見失ってしまった。とても重たくて、とても苦しい。 それに気がつかないままで、アーサーは誰に聞かせるともなく話している。 「まったくひどいお転婆で、乱暴で、小さい頃はよく泣かされたもんだ…よっつ年が上ってだけで、偉そうで、理屈屋で、高慢ちきで、容赦がなくて、口達者で、勝てた試しがない。従兄弟の兄さんたちにいじめられてると、走ってきてみぃんな飛び蹴りでやっつけちまう…カークランド家の御令嬢が、だ!勝気で、頭の回転が速くて、勉強がよくできて、男に生れればよかったのにって母上まで言ってた…俺が意気地がないから。いつも比べられて、情けなかったな…大嫌いだった。その姉さんが、さ、あいつの前じゃあ嘘みたいに大人しいんだ。男の力なんて借りずに生きていくとか言ってた癖に。眼鏡も止めて。モジモジ俯いて、頬なんか染めてさ。その上みんなに反対されて、挙句部屋に閉じ込められて…―――わらえたなぁ。」 「…だから反対したんですか。」 また塊は、じわじわ咽喉をせり上がってくるようだ。 「あの我儘お嬢様が城を出て生きていけるわけないと思ったんだ。それでもあんまり頑固で、そのくせ静かに泣いてばかりで煩わしいし、母上はギャンギャン怒り狂ってヒステリーを起こすしさ。たまらなくなって、…食事を運んだ時、部屋の鍵を、うっかり、締め忘れて出たんだ。」 うっかり、と言う顔は、なんの表情も写していなかった。どこかうんと、遠くをじっと見つめたままで、ピーターはふと、このままアーサーが死んでしまうのじゃないかなと思う。それほどまでにどこか、ここではないいつかを一心に見ていた。 「扉を閉める時、どこへでも行っちまえ、お前なんか大嫌いだって言ったんだ。」 だんだんとその目が、地面に落ちる。 そうすると自然と、その目はピーターを捉えて、ピーターは居心地の悪さを感じる。背中がむずむずするような、足の裏が落ち着かないような。 「そしたらあのクソヒステリー女、」 震える口端が少し笑った。 へったくそな笑い方だった。 「もう二度と帰って来ないから、…だから安心しろ、ってさ。」 最後まで可愛げがないもんだ、そう言ってアーサーは、ぎこちない動きで、少し自分の腕を擦った。まるでそこが痛むみたいに。 「……なんとかしてやるからもう少し我慢しろ、って」 この先を聞きたくないような気が、とっさにピーターにはした。 「いってやれればよかった。」 それは本当に、教会の懺悔室で、ぽつりと落とされる悔恨の声そのものの響きをしていた。後からではなんとでも言えるさ。口ばっかりの嘘っぱちさ。そう言ってのけるにはあんまり、あんまりその言葉はセンチメンタルが過ぎたのだ。 「俺がもっと長男らしく、頼りがいがあって賢くて度胸があって力があって正しくて、」 ピーターには今目の前にいる男が誰なのかわからなくなった。 アーサー・カークランドだったはずの人。彼の叔父。いつだって偉そうで、人を見下してばかりで、頭がカチコチで、まるで融通の利かない、退屈で、保守的で、貴族主義で、性格が悪くて、口も悪くて、我儘で、頑固で、料理が壊滅的に殺人級に下手で、自己満足の塊で、理屈屋で、世界の何より自分の考えが正しいと思ってる、それから、それから…。どうしてなんにも、言えないんだろう。 途方に暮れたピーターの前で、知らない男が、おんなじように途方に暮れたみたいに言う。 「そうしたらお前の母さんは立派なウェディングドレスだって着れた。お前だって金の揺りかごに、あたたかくて広くて清潔な部屋で、家族揃ってもっと楽しく暮らせたろう。」 きっとこの男の言う通りだろう。 でも。 でもアーサー。ピーターは、あの暮らしを、不幸だなんて思ったことは一度もないのだ。お金はなかったし、父親の顔なんて覚えてもいなかった。けれどもピーターはラクリモーサの旋律を覚えていたし、アーサー、アーサーが知らないだけで、寒い部屋で、おんぼろの毛布に母親と二人で包まるのは、とてもとても、…わるくなかった。ひとつもわるいことなんてなかった。すべては順調で、そこにはこうふくがあった。苦しいのや、悲しいのや、腹立たしいの、さみしいのとおんなじくらいに。そこにあった。 私ったらなんて運がないのかしら!よくピーターの母はそう言った。不運と言っても、決して、不幸だとは言わなかった。それがその人の最後の誇りで、意地で、強がりで、けれども真実なのだった。アリス、いいこと、恐れていてはだめよ。それは母親自身がよく自分に語りかける言葉だった。眠っているピーターを眺めてはそう呟いて「よぅし、」と一人で勝手に元気になっている。そういう人だった。初めて好きになった人を家族に受け入れて貰えなくて、駆け落ちして、子どもができて、でもその人は死んでしまって、確かに不運よ、アンラッキーだわ、でもアンハッピーじゃないわ。決してないわ。そのひとりごとが好きだった。それは母親にとって、紛れもない真実だったのだ。それをだれより、ピーターは知っていた。 たからもの。 たからものだ。母親はよくそう言った。お前も、パパも、みいんな私の、たからものよって。 「それでも、」 彼の目は緑色、ああそういえばママの目もそうだった。 「それでもお前は、俺のたったひとりの甥っこだろう。」 勝手に駆け落ちして、勝手に出て行った、勝手な姉が、勝手に作って、勝手に残した勝手な子供だ。自分のことをそう思っているくせに、どうしてたまに、その緑の眼差しが母親と被る。まるでなにか大切なもの、見るように自分を見ている、ような錯覚をする。あんたとピー君は、ひとつだって関係ないのに。 それは違うと、彼だって本当はわかっている。 たとえばその顔だち、特に凛々しい眉毛のかんじなんて、そっくりだもの。誰がどう見たって血縁だ。息子さんですか、と尋ねられる度、俺はまだそんな年じゃないと腹を立てながら、こっそりと口元が緩んでいたアーサー。 「…わかってますよ。」 しぶしぶ、とピーターは口にする。 「でもアーサーは、ちゃんとピー君にお金払ってて住む家も学校も世話してくれるマギーおばさんもぜんぶ手配してくれてるんだから、面倒くさいがきのことなんてほっといて仕事してりゃあいいじゃないですか。」 そうしたら毎回引っかかれたり蹴られたりしなくていいし、服だって汚れないし、こんな田舎町まで出てくる面倒だって省けるのに。 その言葉に、アーサーはきょとりと目を丸くする。 「そんなの家族じゃないだろう。」 その言葉に今度こそピーターは目を丸くした。ではこの男、本当にピーターを引き取ったというだけではなく、家族になろうと思っているのだ。こんな田舎町にほっぽり出して、半年に一回会うか会わないかのその頻度に、お金と住居と世話人を工面した、それだけのことで。 噫こいつ不器用なんだと初めてピーターは思った。 こいつ、なんて不器用なやつなんでしょう。 「じゃあなんですか、アーサーはピー君と手を繋いで休みの日に買い物に行ったり、肩車したり、学校から帰ってきたピー君に今日学校でどんなことがあったか聞いたり、毎朝テメーの糞不味い料理を食ったり、そういうことをしたいと、言ってるわけですか。」 「したいんじゃなくて、そうする、んだ。家族なんだから。」 ただ今、お前は病気だから。とアーサーが言う。病気が治ったら、“そうする”んだ、と当たり前みたいに。馬鹿じゃないだろうか。ピーターがその“病気”になったのは、いきなり慣れない国で不器用で人の悪い叔父と暮らす羽目になったストレスのせいだっていうのに。 「腹立つことが多かったけど、それでも俺の、たった一人の姉さんの…死んだって聞いたとき、本当に、後悔した。でも、お前が残ってるって聞いて、俺は、」 うれしかったんだ。 ぽつんと言葉が、ピーターの胸の真ん中に滲んだ。 ああそうか。この人、 「ほんっとに馬鹿なんですねえ、あんた…。」 心底呆れた口調で、文句を言おうと開かれかけたアーサーの口が、しかしぽかんと音もなく開けっぱなされた。 ピーターの真っ青な目から、ぼたぼた水が落ちてるからだ。 「おい、」 ぎょっとしたような声が、次第に途方に暮れたような響きを帯びた。 「おい、なあ、…どうしたんだ。おい、」 なんでわかんないのかなあ。どんどん涙が出てきて、アーサーが弱り切った声をあげる。泣くな、泣くなよ、なあ。 |