「マリーン!」
 叫んだ。ほとんど雨と風に掻き消されて、ピーターにだってその声は聞こえなかった。もつれるように走りながら、ほとんど暴風にもみくちゃにされて、それでもピーターは前に進んでいた。
「マリーン、」
 倒れこむみたいに、木の下に飛び込む。マリーンは木の下に蹲るみたいに小さくなってしゃがみこんでいた。小さな子供みたいだった。もうピーターは、マリーンが自分が思ったほど大人の女の人じゃないことに気がついていた。アーサーなんかより多分ピーターの方が年が近い。ピーターはもうすぐ13歳になるけれど、アーサーは27歳だ。
 もちろん全身ずぶ濡れで、顔を上げだら泣いていた。真っ青な目が、悲しそうに透き通っていた。シーランド号がミシミシと音を立てている。嵐の中の、航海だ。船員は一人で、しかも泣き虫の女のひとだ。ここは船長がしっかりしなけりゃと、ピーターはムンと口を結んだ。手下を守るのは、船長の役目なのだから。
「マリーン、誰を待ってるですか。」
 自分よりも大きな手のひらの上に、そおっと自分の手のひらを重ねた。
 どちらも雨に濡れて、びしょびしょだ。言っているそばから、波みたいな雨が被さってくる。海の中にいるみたいだ。容赦なく打ちつけてくる雨風に目をシパシパさせながら、それでもピーターは目を逸らさなかった。
 マリーンは黙っている。
 なんでピーターがここにいるのか、わからないみたいだ。ぽかんとした顔で、ピーターを見てる。雨じゃない滴が、目から流れていた。雨と風と海と木以外、話すものはない。マリーが黙っているから、ピーターも黙っていた。ただじっと、返事を忍耐強く待った。普段のピーターなら、考えられないような粘り強さだった、と後になってもその瞬間も彼は思っていた。
「マリーン、」
 促すように、まっすぐピーターの空の色をした目がマリーンを見据えた。のろのろと顔を上げて、それからマリーンは、少し笑おうとして、失敗した。海の色した目玉が、海原みたいに、ゆらりゆらりと揺れて、そこからいつもの海が流れ出していた。
「…わかってますよ。さては男ですね。」
 見ている方が、悲しくなって、わざとおどけてそう言った。
「そうよ、」
 マリーンの声は、内側から震えている。
「…パパよ。」
 囁くような声だった。嵐の音にかき消されてそうな、音量で、けれでも不思議と、ピーターの耳に届いた。パパ。
 その響きだけで、もうそれが帰ってこない人の話なんだと、ピーターにはよく分かった。
 ただピーターは、マリーンの手をぎゅっと握った。マリーンもぎゅっと握り返してくる。嵐の中で、世界には二人だけみたいだった。きっと今世界が終わると言われてもこの手を握ったままちゃんとここに、戦いもせず逃げもせずに、こうしてじっと、立っていようと思った。
 手を握っていてね、ピーターくん。
 いつもとなんにも変らないように、明るく、優しくママがそう言ったから、彼はずうっと、その手が冷たくなっても握っていた。あれもひとつの世界の終わりだったのだと、ピーターは思う。
 二人はじっと黙っていた。
「…――――お願い、」
 それは母親が、ピーターに最後のお願いをした時とは対極にあるような、よわよわしい響きだった。でもやっぱり、似ていると思う。なんですか、とピーターは囁いた。なるべく優しく、聞こえたらいいと思った。
「今日が、終わるまでは、待ちたい。…待たせて。そうしたら、」
 ピーターは頷いた。
 マリーンの手が、痛いくらい小さなピーターの手をぎゅうぎゅう握りしめていた。嵐の中、丘の上で、二人はそうしていた。石でできた像みたいに、そこにそうして、世界が終わるその時まで、じっと座って、飛ばされてしまわないように。








(20120329~)