あの真っ黒な丘の稜線を埋め尽くす十字の群れをご覧。なんて愚かしく、なんていとおしく、なんて無意味なのだろうね。
「ご覧よ、空は青褪めた灰色をしている。」
 瓦礫の上に腰掛けた少女に声をかけられて初めて、青年は空を見上げた。娘の白い人差し指が天を指し、先ほどまで見つめ続けていた焼け焦げた地面から急に真上に目を移したことで視界がクラリと反転しそうになる。見上げた拍子に目の端から透明なしずくがつたった。雨だ。雨が降っている。灰色の空から降る雨は弱く、いつだっけ、遠い国の日の当たる場所で、緑の丘に降る同じような雨を見たことを思い出す。
 ――やあ、これはこれは。涙雨ですね。私の国ではそう呼びます。やさしい淡い、雨ですよ。
「なみだあめだ。」
 少女が記憶の中の彼と同じ言葉を口にした。
 青年はうろんな眼差しのまま、少女に目を向ける。白い頬。どちらもすっかり青褪めて、冷え切っている。少女の目玉の黄金ばかりが、泣きたくなるほど明るかった。空は暗く、大地は黒い。遠くの丘も真っ黒だ。ああ、その昔ここはきれいな花畑。花を摘んだ、花を摘んだね、真っ白な花を。ほろりと屈強なその青年の目からなみだが落ちる。まっしろな涙ね、と少女が呟き、彼は僅かに呻くだけ。少女は黒いワンピース。裸足の足。肘をついたまま、無表情に告げる。涙を流し続ける彼に、大きな身体で子供みたいね、と。
 その言葉にも覚えがあった。聞いたことがある。
(もう。こどもみたいよ、ルート。)
 白い花に良く似た微笑があった。
 やさしいやさしい、ことばがあった。
 昔ここで花を摘んだ。自分には似合わない行為だとはわかっていた。
 ――おんなのこにプレゼント?それなら俺、お花がいいと思うなぁ〜!
 だから花を摘んだ。そうしてけっきょく、どうやって渡そうかと背中で握り締めているうちに、花はしおれてしまった。しかしその人は気がついて、しおれた花をそっとそのやさしい指先で摘みあげてありがとうと言ったのだ。ありがとう、と彼の名を呼んで。その細くて小さな指先が、そっと彼の手を握った。彼女の手は、強く握り締めてもしおれたりしなかった。
 ああその人は優しかった。神様は優しい、聖母様は慈悲深い、キリストは我々の代わりに罪を負った、司祭様は哀れみ深くて、教会は罪をすべて許す。ああけれど彼女はもっと優しかったのだ。もっともっと、やさしかった。
 少女が無機質な瞳で尋ねる。
「ねえ、旗をどこへ置いてきたの?」
 その言葉の通りだ。彼が大事に、縋るように持っていたはずの旗がどこにもない。見当たらない。
「ねえ、どこへおいてきてしまったの?」
 知らないよ、わからないんだ。言葉が出ない。
「みんなどこへいってしまったのかしら。」
 知らない。なにも、知らないんだ。
 そんなはずはないだろうと、彼の背中で彼自信が慟哭する。ああ彼らはどうしたろう、どうなったろう。なあ、なあ。背中がうるさい。ひどくうるさい。
「地面が黒いね、真っ黒黒だ。」
 そうだ、ああそうだった、知っているよ。
「むかしここはお花畑だったのよ。」
 知っている。花を摘んだ。花を摘んだ。
「ねえ、あなたが踏んでいるのはなに?」
 パキリと足の下、乾いた音がする。
「ねえ、あの丘を埋め尽くす十字の群れを見て?」
 ああ、見たよ。十字架の行進。その下に埋もれているものも知っている。
「ねえ、あなたが手に持っているのはなぁに?」
 銃と、それから。それから?
「ねえ、その腕は誰の腕なの?」
 真っ白な腕。花のような手のひらの形。
「ねえ、はどこへ行ったの?」
 彼の青い目に、ピシリと亀裂が走る。青い目が割れる。空は曇ったままだ。世界は褪めた、灰色をしている。
「ねえ、」
 彼はもはやなにも語らない。


(語らじの丘)
20090724