『アーサー、アーサー、起きて。お客さんよ。』
 夢の中で優しい誰かに呼ばれた気がして、アーサーは目を覚ました。
 目を開けるとどうやらもう昼間のようで、窓からレースのカーテン越しに差し込む光が明るい。そーか、もう昼か、そーか。ちょっと泣きはらした緑の目玉で、彼がぼさっとしていると、誰かに頭をこつんとやられた。
 びっくりしてきょろきょろあたりを見回しても誰もいない。念のため枕をひっくり返してみても、オバケはいなかった。
 おかしいな。
 まだ寝ぼけた顔を上げると、なぜかしら、しっかりと上から下までコーディネイトした新しい服が、今朝それを着ていて、自室に引っ込むときに泣きながら脱ぎ散らかしてそのままにしたやつが、だ。ちゃんとハンガーにかけてしわを伸ばして、ブラシまで当ててあった。
 おや?
 続いて視線をサイドテーブルに移すと、洗面器に水が張ってあって、干したてらしいふわふわのタオルがセットされている。
 おやおや?
 思わず体を起こしてそのまま顔を洗う。タオルに顔を埋めるとしゃぼんだまの香りがした。コトリ、という音にタオルから顔を上げると、窓辺にブラシが置いてある。
 おやおやおや?
 今度こそベッドから起き上がって、すると不思議だ。足の痛みが引いている。パジャマの裾を持ち上げるとまだ腫れていて、でもずいぶん楽だ。少し不思議な香気がする。昔、うんと昔―――怪我した時に優しい誰かが傷口に塗りこめてくれた、優しいお薬の匂い。窓辺のブラシを取って、髪を梳かす。キラ、とまぶしい光が目に入って、目をしかめて振り返ると、鏡がこっちに向かって早く準備をおしよ、とでも言うように顔を向けていた。
 おやおやおやおや。
 なんだかもう魔法にかけられたような気分で、服に袖を通す。一度ネクタイが曲がっていないか鏡でチェックして、それから鏡にひっかけられていたハンカチを胸ポケットにさそう―――としたら、ハンカチからポロリポロリとエメラルドのカフスボタンが落っこちてきた。慌てて拾って袖に取り付け、やっとハンカチを胸ポケットにしまう。そうして足を少し引きずりながら扉を開けると、すてきだ、松葉杖が廊下に立てかけられている。
 すると突然に、きゃっきゃと楽しそうな、明るく笑いさざめく声が、庭から聞こえてくるではないか。
 不思議だ。
 松葉杖に頼りながら、ゆっくりゆっくりと廊下を抜ける。玄関には靴と、それから『準備は完璧?』というメモと一緒に、香水の瓶が置いてあった。
 なんのつもりかしら、自分が出かけられなくなって不貞腐れているものだから、なぐさめようとしているのかな。
 かわいらしい同居人たちの顔を思い浮かべながら、香水を一振り。
 玄関の扉を開けると、『帽子を忘れないで、アーサー。』シルクハットが落ちていた。さっと杖の先で拾い上げて、少しはたいてから頭に乗せる。すると帽子のなかで一度、ごとり、と何かが頭に降ってきて、「いてえ!」懐中時計だ。
 月と星を模した金の懐中時計は、いつの間に直ったんだろう。心臓と同じリズムで時間を刻んでいる。金の鎖を大事そうに眺めた後で、それも胸ポケットにしまった。それからゆっくり帽子を被りなおして、姿勢を伸ばす。
 楽しそうな声は、家の裏手からするようだ。
 彼らに少しだけ付き合ったら、隣家へ行って電話を借りよう。電話線の修理屋を呼んで、どれだけ遅くなったっていい、自分でちゃんと電話をするのだ。それからおめでとうとごめんなと言って、それから誕生日が終わるまで電話しよう。
 まだ少し赤い目を細めて、彼はゆっくり、三本になった足で歩き始めた。
 いい天気。
 ばらがなにか秘密を隠して、くすくすわらっている。