子どもは嫌い。すぐ大人になるから。 大人は嫌い。すぐにじき死ぬから。 人間は嫌い。みな須らく何れ死ぬから。 冬の吐息を吹きかけられても、凍えない者がいい。吹雪の夜長を、裸足で駆けられる者でなければだめ。白刃の嵐と、ワルツを踊る者。真っ白に閉ざされた暗く長い季節に、怯えることはなく、飢えなど微塵も感じない、そういう者がいい。宝石のように燃える、優しいペチカ。そのぬくもりに軽々と背を向けて、狼のように黒い森と白い丘を超えて。飢えも渇きも知らぬ、悲しみも、苦しみすらも知らぬ。天使の兵隊のような、子どもがいい。 人間は嫌い。須らくみな何れ死ぬから。 それなのに彼の広い両腕の中にはたくさんのいのちがあった。その逞しい腕に守ってと縋るやわい生命が。彼がふるいにかけるまでもなく、苛酷な環境はその指の間からたやすくそれらを取りこぼさせた。 本当はひとつだってとりこぼしたくなんてなかった。すぐ大人になって、すぐ死んでしまいさえしなければ、それらは彼にとって、すべてみなただの愛しいこどもであったから。ひとつもとりこぼしたくない。それでもなお彼の指先ですら、冬が凍えさせる。嫌いだよと無感動に囁きながら、彼がどれだけ弔ったものたちに痛みを齎されただろう。 強い者が好きだった。 守ってと彼に縋らないどころか、いっそその腕から飛び出していってしまうような者が好きだ。冬を、吹雪を、そして彼自身を、恐れないもの。畏れたとしても、それを超えて、こわくないと宣言できる者。そういう者が好きだ。 ただそういう者たちは、大抵が生き急ぎがちだから、その中でも一等、なかなか死なない者がいい。 だからその子どもを抱いたのは、気まぐれだったのだと思う。 そうでなければどうして、直接その腕に抱いてしまったりしただろう。理由には、お気に入りの人間の子どもだったからというのもきっとある。もう昔のことだ。御伽噺の昔々ほどじゃない、近い昔。あんなに強い人間の子どもの癖に、母親に似たのだ、ひどくか弱い子どもだった。 女王の駆る白銀の馬車が、轟々と走り回る夜。透き通った真っ赤な炎が、ペチカでチラチラと燃えていた。あたたかな部屋のなか、真っ白なカーテンに壁のアラベスク模様、真っ白なシーツの、大きなベッド。疲れたように、満足そうに、女が寝転んで、上体だけ起こしている。 「ヴァーニャ、」 その傍らにたった男に呼ばれて、彼はゆっくりとベッドに近づいた。女の真っ赤な寝巻きと、その上に流れる髪はお日様の光が溶け出したようだった。女の手から男の手へ、そして彼の手へと預けられた小さな弱々しい生命を見下ろして、きっとすぐ死ぬだろうと彼は思った。 その子どもは、どの子供とも同じに、かわいかった。 かわいいね、と素直に彼が言い、それに男は穏やかにありがとうと返した。 「神様に愛されてるんだ。そうじゃないなら、贔屓されてる。」 ええ?と片方眉を上げて聞き返す男に、彼は至極まともに頷いた。幸運な子どもだと思った。子どもは誰もみな生まれてくる家を選べないが、そういう意味で、この子どもは大変な運の持ち主だった。弱い子ども、小さくて、もろい。きっとすぐ死んでしまう。 けれどもしかしたら、この子どもはその自らの幸運によって、死なずに少しは生きるかもしれない。 この家は“あたり”だ。大当たりの家。 宮殿のような立派なお屋敷。父親は強く逞しく、立派で、真っ白な軍服の肩に胸に、たくさんの金の勲章をつけ、太いリボンの飾りを肩から斜めにかけている。母親は体こそ弱いけれど美しく優しく、それこそ他にやることもない、四六時中子どもの面倒をよく見るだろう。たくさんの召使いに、乳母もいる。豪華な調度品に囲まれ、外の寒さなど知りもしないで、暖炉には常にあたたかい火がともっている。病気をすればすぐにこの国一番の医者が呼ばれて銀の注射を打つだろうし、飢えや乾きなどという存在すら知らずに育つに違いない。真っ白な敷布と、サテンの布に包まれて、まもられる子ども。それを幸運と呼ばずになんと呼ぶだろう。生まれたところが冷たい石造りの雪に半分埋もれたあばら家であれば、この子どもはきっと10分ともたなかったに違いない。そうやって取りこぼされていくたくさんの生命。 「名前はなににしたの?」 女の腕に子供を返してやりながら、彼はのんびりと尋ねる。 「君に決めてもらおうと思って。」 嬉しそうに笑った男と、それに同意するように頷いた女の前で、彼は噫勘弁してほしいと笑顔のまま考えていた。 どうせすぐ死ぬ子供だ。名前なんかつけたら、死んだとき、少しかなしい。 ええ?と困ったように尋ねると、男はずっと前から決めてたんだと笑う。彼におねだりができる数少ない人種。それもこんなお願い事。なかなかない。 「一寸待ってね…考えるから。」 ついに諦めて彼はふむと顎に手をやる。深くは考えなかった。犬猫にするように、名前。だってどうせこの子どもは。 軽くて弱弱しいいのち。 きっといつか消えてしまう。 生命のこと。 「…。」 彼の口にした名前を繰り返して、いいね、と男が笑った。 「。」 子どもも笑ったようだった。彼はただうっすらと微笑んでいた。 |