七つの誕生日に、彼は子どもに、真っ白な粉砂糖を押し固めたみたいな月長石の手鏡をやった。白い石にカメオのように、薔薇の花びらと真珠の粒とを彫刻した台座には、よくよく磨かれた銀の鏡が嵌め込まれている、美女と野獣のお話に出てきそうなやつだった。
 子どもはよくベッドの上で体だけ起こして、その鏡の台座ばかりなでていた。月長石は常にしっとりと水分を含んでいるようにつめたく、熱の高い子どもの手のひらには心地が良かったのかもしれない。
 けれどもそれは鏡で、台座はその飾り、脇役なのだから、そちらばかりを見つめているというのはどうなのかしら。
 もうここしばらく、子どもはブランコを揺らしていないし、木馬にだって乗っていない。砂漠のように広がる、羽毛でふかふかの白いシーツの中に埋もれてばかりだ。去年やった指輪を巡る長いながいお話は、とっくの昔に読み尽くされて、それを何度も繰り返されていた。
 彼は子どもの読む本に詳しくないから、いつか病気の子どもの話をしたら、笑い方に妙にクセのある彼曰くの“ともだち”が、妙に神妙な顔をして何冊か本を見繕ってくれた。彼はありがとうとそれを受け取ったあとで、戦場で見捨てる者と残す者とを選別する時のように殊更に努めて無情に、タイトルから数冊をつまみ出して捨ててしまった。昔聖母の名で呼ばれた友人の“彼”は、どうしてその時代の名残りであるのか生まれ持った性質であるのか、時々清らかに残酷なのだった。何百年と生きてきて、まだ奇跡とかそれに類するものを、無意識に、ごくごく自然に信じているのだ。そうでなければどうして、治る見込みのない子どもに贈る本の中に、バーネットの書いた庭の話なんていれられるのだ。自分にはとてもできないな、と呆れるように彼は冷たい微笑をする。
 だって死んでしまうのに。
 そんな子どもに、どうしてあんなお話、読んでごらんと残酷なことが言える?

、鏡の裏ばっかり見てるね。」
 静かに、ごく穏やかにそう語りかけてから、彼は自分でもその言葉を少し気に入った。鏡の裏側。それはなんだか秘密めいて、夜だとか月だとか眠りだとか、あるいは静かな死だとかを、感じさせる言葉のような気がした。それはどうやら、子どもの方も同じらしい。
「ええ、」
 小さな声がそおっと内緒の話をするように囁く。それは子どもの癖のようなもので、ただ常に大きな声を出すだけの元気がないだけだとも言えた。
「だって、きれいなんだもの。」
 雪の像みたい。そう言って子どもは笑い、彼は雪なんて呆れるくらい外にあるのにと思ったけれど黙っている。
「…は雪が好き?」
 うっすらと心の中、酷薄な微笑を彼は浮かべながら尋ねる。「すき、」そう子どもが答えることなどわかりきっていた。この子どもは雪に凍えたこともその寒さも残酷さもひとつも知りはしない。真っ白な部屋の、真っ白なシーツの中にいて、外の世界に憬れながら眺める風景の中に、その白があるだけ。時折外に出て触れる、その白がこの子どもにはいったいどれだけ非日常なことだろう。雪の降り始めた帰り道にマフラーに首を埋めて肩を震わせ急ごうと歩みを早める石畳の冷たさも、狭い路地裏で身を寄せ合ってひたすらにただ耐え忍ぶ夜の長さも、この子どもは知らない。子どもはあらゆるものから遠ざけられて、肌触りのいいサテンのシーツ、ふかふかの羽毛布団、温かい暖炉、それから茹だるような自らの熱に焼かれて、眠っているのか起きているのかも曖昧な微睡のなかにあるばかり。刺すような銀の嵐も、凍りついた雪を踏んで歩くことも、なにも知らずにいて、何時かと夢見るまでもなく、恐ろしいもの、冷たいもの、そういったものすべてから遠ざけられて、けれども何より恐ろしいものとこの白い部屋で見つめ合ったまま、そのまま何れ。
「…僕はあんまり、好きじゃないな。」
 返す言葉が少しかすれた。泣きそうなわけでも悲しかったわけでも、せつなくなったわけでもなかった。ひどく残忍で、意地の悪いことを言いそうになったのを堪えるためだった。
「イヴァンは雪より、お日様が好きだものね。」
 子どもがとろけるような笑顔を浮かべた。子どもがふた親から受け継いだその太陽の色の髪。あの真っ白に輝いて燃えるお空の星が、彼は好きだった。それはいつも、雲間の遠くから、決して彼に触れてくれはしなかったけれど、優しい日差しを投げかけた。それだけで彼は、救われるような気がした。けれども決して、彼はそのマフラーを外して、外套を脱いだりはしなかった。
 どんなにあたたかい日射しがさす日でも、この国はあまりに寒いのだ。
「そうだよ、」
「ひまわりも、好きね。」
 うんと頷く彼を見ながら、それがいっぱいに描かれた絵本を枕元から引き寄せて子どもがにっこりとわらう。
 真っ青な背景の中に、太陽の乱舞。プロヴァンスの絵描きを思わせる色彩、文字のない絵本。読んでとせがまれる度に、彼はでたらめに物語を作った。どれもだいたいの大筋は、小さな男の子が雪の国からひまわりの国へ、裸足で旅をする話になった。
 この子どもはそういえばひまわりも見たことがないとふいに思い当たって、もう夜であるのに彼は花屋の扉を叩きたいような気がする。もちろん気がするだけだ、こんな寒い夜に、わざわざあたたかいお城から出て、どうして夏の花を求めるのだろう。そもそもこの国に、あの花は自生しない。
「鏡の“おもて”は嫌いなの?」
 彼の口から飛び出した質問に、子どもは子供らしからぬ微笑をした。
「嫌いじゃないわ。」
 きらきらして、きれいね、と言う。
 何が嫌いかはなんとなく言われなくてもわかる。きれいな女の子は、けれど病気で、ベッドの上、部屋の中。木馬は寂しそうに部屋の隅にいる。何れもっと寂しくなるよと、横目に写ったそれに彼はなんとなく微笑みかけた。何の気休めにもなりはしないと思った。