子どもの十三歳の誕生日に、彼はの白い部屋に小さな楽団を招いた。 二本のヴァイオリンと、一本ずつのチェロとヴィオラ。彼の合図で、燕尾服に蝶ネクタイ、おひげを生やした紳士たちが、にこにこと自らの半身と椅子とを持って、白いお部屋に入ってきた。は目を丸くしたまま、四人がドアから入って来るのを見つめていた。彼はベッドの傍らで、椅子にさかさまに座って、背もたれに腕と顎を乗っけてにこにこしている。ご機嫌だ。そう見てとって、子どもはそうっと肩の力を抜いた。父親と執事と彼以外の男の人が、こんなにたくさんこの部屋にいたことは未だかつてなかったのだ。 暖炉の前に椅子を並べて、立派な紳士たちは優雅にお辞儀をした。パチパチ、と無邪気そうな笑みを浮かべて、彼は拍手をする。子どもがそれを見て、同じようにするのがかわいく思えて、彼は少しくつりと笑った。それに紳士たちも、そおっと目を細める。 「本日は、」 赤いヴァイオリンの紳士が、ピンと背筋を伸ばして咽喉を震わせた。テノール歌手でもやっていけるな、と考えながら、彼は頬杖をついている。 「・嬢の十三の生誕祭の演奏会へようこそおいでくださいました。」 芝居がかった言い回しで、パチリと片目すらつぶって見せる。 「どなた様もどうぞ、心行くまで今宵、音楽の調べをお楽しみ下さい。」 パチパチ、とまた小さな二つの拍手。彼は大きな、皮の厚い手のひらで、殊更ゆっくりと手を打ち合わせた。そうすると拍手の音はくぐもって、どこか柔らかくなる。そこに小刻みなの拍手が混ざって、なんだか心臓の音のようにも聞こえた。子どもの心臓はことことと早足に、彼の心臓はゆっくりと力強く、噫、そんなことを考えるのは止めよう。二人が拍手を止めると紳士たちはそっと席に着いた。 チラチラとどこかで、幻のオルゴールが鳴っているような気がして、彼は小さく首を振った。馬鹿だな、まだ演奏は始まってもいないのに。 けれども四本の楽器が歌いだしても、その音色は、彼の頭の中を流れるオルゴールの音色と絡むように、スラスラと流れていく。気でも狂ったかしらと無感動に思いやって、それから彼ははたと気がつく。 子どものひとつの誕生日に、送ったオルゴールと同じ曲だ。 チラチラチラと、このお城に訪れる度、彼を迎える音色だ。子どもが小さなその手で螺子を巻き、彼が玄関から迎え入れられてホールで顔を上げると、もうどこか遠くからその音色は彼に向って小さく歌っているのだった。だからもうすっかり耳があの金属の櫛が奏でる音色を覚えている。卵の形をした、小さな銀のオルゴール。螺子が切れれば止まってしまう。人と同じに。 流れるように、低く、高く、四本の楽器が歌った。音の海に溺れるようにして、彼の紫水晶の瞳は、どこか遠いところを見ていた。鏡の裏側のことを、考えている。いつかみな須らく失われること。それなのに人は歌をうたい、絵を描き、詩を書いて、音色を奏でる。確かに何か、時の流れの中に痕跡を残すように。覚えてもいない昔のことを、優しく揺り起すように。 噫この曲を作った人間のこと、誰も知らない癖にと彼はふいに胸を裂かれるような心地に襲われた。 この曲を書いたひとりの音楽家のこと、誰も知らない。ただその名と譜面だけが残り、音楽家はどこにも残らなかった。生きていたって死んでいるのと変わらないように、死んでいたって生きているのと変わりないことってあるだろうか。答えはいいえ。いいえだ。そこに音楽家の愛が、悲しみが、喜びが、魂が、命が残っていたって、音楽家の存在はどこにもないのだ。人間は誰も知らない、覚えていない。ただ楽譜を通して、知っているような気になるだけ。彼だってもう、顔が思い出せない。音楽家は彼のことをこわがっていた。それでも家に押しかけて、よくピアノを強請った。 顔を青くしながらピアノの前に腰かける音楽家が、彼は好きだった。 それもでも昔のこと。人の例に漏れず誰もかれもみな死んでしまって、そうして誰もかれもが死んでいくのだろう。考えるなと言われても、考えずにはいられない。どうしてって、彼が人ではないからだ。人ではないのに、人によく似た形をして、人に混じって生きているからだ。 ひと際たかくヴァイオリンが震えた。すすり泣くような音だと思った。その音の底で、チェロがしわがれた人間と同じ高さの声で何か諭すように物語続けている。それは懐かしい誰かの声に似ているようにも思えたけれど、そんなのは下らない感傷だよ、ともう一人の彼が背中で囁いた。雪が深く、することが何もないと、つい考えてしまうね。どうでもいい、暗い、重たいことをさ。 そうだね、と彼は遠くを眺めたまま頷いた。 どうしてだか彼は、今ひどくセンチメンタルなのだった。曲選のせいだ。少し沈みかけた彼の気分を両手で掬うように、ヴィオラが優しく鳴った。四本のよく似た形の楽器と四人の紳士は、ひとつの塊のようになって音を奏でている。もういない人間の残した曲、この演奏が正しいのか、もう誰にもわからない曲。チラチラチラと、耳の奥でやはりオルゴールが鳴っていた。星くず撒き散らすような音だなと思った。噫せっかく、忘れてたのにな、と彼は嘯く。この曲を作った人間のことも、この曲のことも、みんな、忘れてたのに。 曲が終わって、は頬を真っ赤にして何度も何度も手を叩いた。 「私の大好きな曲よ!」 お父上とお母上にお伺いしましたからね、とそう返す紳士たちに、子どもは何度も同じ言葉を繰り返した。「私の大好きな曲よ、」その瞳はキラキラと光って、湖が溶けたみたいだった。 |