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ヴィオレッタさんの小さな庭のことを覚えているだろうか。
彼女の南に向かって開けた窓辺には、小さな庭がある。たくさんの鉢植えが、ところせましと置かれていたり、吊られていたり引っ掛けられていたりして、窓全体が庭のようだ。
その彼女の小さな花園に、最近スミレの花が仲間入りをした。鉢植えも小さくて、きれいな薄紫のリボンがついている。毎朝他の花と同じように、ヴィオレッタさんはスミレにも金の如雨露で水をやる。だからスミレはすくすくと、お日様の光を吸って伸びた。雨の日には、他のデリケートな花たちと同じように、部屋の中に招かれているようだ。
そうして最近、彼の小さな楽しみが増えた。
家を出るとき、石畳を下る前に、お隣の窓を見上げて、リボンがひらひらと風に揺れているのを確認して、ちょっとうきうきして、軽い足取りで坂を下る。家へ帰るとき、お隣の窓を見上げて、やっぱりリボンがひらひらしているのを見て、ちょっとほっとしてアパルトマンの階段をゆっくりと登る。
ヴィオレッタさん、ヴィオレッタさん。スミレの花の、女の子。
本当の名前は、=トゥールビオン==ナタリー=ソフィア=ローズ=エディット=ヴィオレット・ド・トゥールーズ・クリスタリゼさん。とっても長くて、少しへんちきりんな、砂糖菓子の名前のお嬢さん。
目蓋に浮かべれば、口元、軽く綻び。花の名、口ずさめば、足取り、踊るようなリズム。
「恋やんなあー!」
彼の友達が、によによ笑って彼のほうを見るので、気分が悪い。楽しそうに、彼の悪友そのいち、アントーニョさんが笑う。
「お前、それは、恋やで!」
「いやいやいやいや!お隣さんもといヴィオレッタさんだぞ?」
「だからなんやねん。サンクチュアリか!」
彼の言葉に、友達は爆笑した。それはもう立派な爆笑である。あんまり愉快そうに笑うので、ちょっと口をタコみたいにしていじけてしまった彼に、堪忍堪忍と目尻の涙を拭いながらアントーニョさんがわらった。
そう、まだわらっている。
「おまっいい加減にしないとお兄さん怒るわよ!」
「あっはっは、かんにん、だって、あかん、だってアムールの国の男が、こん、こんな、こん…ぶふっ!骨抜きやんかあ!」
おなかを抱えてげらげらヒイヒイ。いい加減本当に彼は心が折れてしまいそうだ。
「なっ、なんでなん?なんでそないな…ぷぷっ!かわいそうな感じになってんの?」
それに「うるせー」と返しながら、ほとんど彼は投げやりだった。
「べーつにぃ?お兄さんはかわいそうじゃありません!恋してるんだもの!これってむしろハッピー?ハッピー!」
それにまた、嘘つけぇ!とアントーニョさんが大笑いする。
「それがハッピーな面か!」
「美しいハッピーな面だろうが!」
「ヒイイイ!あかん!笑い死ぬう!ロマーノ助けて!」
いったいどれだけ笑うつもりだろう。
なにせ女性(に限ったことではなかったりもするのだが)に関しては百戦錬磨の電光石火、恐れ知らずの百発百中、愛の国フランスことフランシスさんである。それがこれ。これなんだもの!
「さっさといつもの調子で口説き落としたらええやんかぁ!」
「かんったんに言ってくれるじゃないの!ああ?」
「お手のもんやろ!ジョージイポージイプリンにパイ!」
「女の子にはキスしてポイ…ってんなことできるかあああ!」
しかも眉毛ん家の文学を出すな!ついには叫び始めた。
「ポイなんてできるか!」
「おお、本気。」
パチパチと拍手。彼は顔を赤くする。
「ちがっ…お隣さんをポイなんてしたらその後すみにくいでしょ!俺ここ気に入ってんの!末永く住みたいの!」
パチパチとなお拍手を重ねて彼が両腕広げていい声で歌い出す。
「ターンターカターン!」
「なんで結婚行進曲!」
「末永くってプロポーズかと思って…!」
「気が早い!」
「おお!それはいずれはととってええの!?」
「ばっ!告白もまだなのに!」
「ええよええよ〜親分は応援しとるよ〜!」
「ばかっ!もう!俺はこんなにまじめに悩んでるのに!」
「だからちゃんとこうして力になったっとるやん〜!」
「どこが!」
「え〜〜どこがってぇ、」
ヘラリという悪友の笑う顔。フランシスさんは、なんだかとっても、嫌な予感がした!嫌な予感!
「窓開いとるで?」
彼は振りかえった。それはもう、光の速さで。
窓は開いている。
外は晴れ。いい天気。
窓はひらいている。今日は日曜日。仕事はおやすみ。
彼の目は点になった。それこそもう、小さな小さな点になった。お星さまの目、ころんと落ちそうだと思った。
そして次の瞬間これまた光の速さで、彼は窓辺に移動してバッと窓から身を乗り出してお隣を見た。
スミレの花。風に揺れている。リボンはひらひらとちょうちょみたく、わらっている。お隣の窓は開いていて、そして金の如雨露を手に、目をまんまるにしている女の子と目が合った。
彼はうっかり力が抜けて、窓から落っこちるかと思った。
それをなんとかぐっとこらえて、彼はかすかな声で「ボンジュー、」と呟いた。耳まで赤い。同じように挨拶を返す、ヴィオレッタさんの耳も赤かった。
彼の部屋の中、友人ばかりが、口笛吹いている。
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