ヴィオレッタさんのことを話そう。

 ヴィオレッタさんは彼のアパルトマンのお隣に住んでる。よくかわいらしい黒い靴を履いていて、それからスミレのピンで前髪を止めている。大きなストールをいつも肩からかけて、とことこ歩く。とことこっていう効果音がぴったりだなぁと、彼は彼女が歩くのを見かける度に、実は感心していたりする。ヴィオレッタさんは、時々胸元の小さなばらの刺繍以外なんの飾りもない真っ白なエプロンつけて鍋つかみのミトンに手を突っ込んだまま、部屋からでて廊下をうろうろしていたりすることもある。
 ここまで聞いてもヴィオレッタさんというのは、犬や猫でなく人間のことだというのがおわかりいただけるだろう。そう、ヴィオレッタさんと言うのは、あるお嬢さんのことなのだ。

 本当の名前は、=トゥールビオン==ナタリー=ソフィア=ローズ=エディット=ヴィオレット・ド・トゥールーズ・クリスタリゼさんと言う。実家がコンフィズリーをやってるのよ、と肩を竦める彼女の名前は、なるほど、長いだけでなくちょこっとおかしいお菓子の名前。それにしてもずいぶん長い名前なので、本人も時々減らしたりうっかり増やしたりしてしまうらしい。

 そんなヴィオレッタさんは、ふわふわした肩までの栗色の髪に、それからスミレ色した目玉を持ってる。はじめましてのご挨拶をした折りに、その目を彼はずいぶん気に入って、最初はこっそり、「隣のヴィオレッタさん」と自分でだけ呼んでいたのだけれど、ポロッと酔った勢いで悪友に話してしまった。話したことも忘れていたら、ある日ばったり、アパルトマンの階段で鉢合わせして「ああーあんたがヴィオレッタさんかぁ!ほんまやべっぴんさん〜!」とうっかり漏らされて以来、面と向かってヴィオレッタさんと、勝手なあだ名で呼んでいる。それに長い長いお名前のなかに、"すみれ"と入っているし、あながち勝手なわけでもない。
 ヴィオレッタさんの窓には、たくさんの花が植わっている。朝、彼が窓を開けて鼻歌うたいながら髪の毛を整えている頃に、彼女も窓を開けて花に水やりをする。ふわふわの髪の毛は寝起きでさらにふわふわで、ストールは忘れずにしっかり巻きつけて。
 金の如雨露で水やりをする。

「ボンジュー、ヴィオレッタさん。サヴァ?」
「ジュビアン。ボンジュー、フランシスさん。サヴァ?」
「もちろん元気!」

 窓越しに挨拶してから、彼は窓を開けたまま台所へひっこんで朝ご飯を作り始める。まだヴィオレッタさんは花の手入れをしていて、小さく鼻歌なんか聞こえてきたりする。それを聞きながら料理をして、窓辺のテーブルで朝食をとる。おはようパリ、なんて呟いてみると、おや、ずいぶん古い歌。ヴィオレッタさんの鼻歌チョイスはいつも懐かしいレコードに似ている。あわせてかすかに低く歌うと、テーブルの黄色いマーガレットが少し笑ったようだ。
 なにせお兄さん、みかけよりずっと年だからね、って笑うと、どうやらほんとに花はわらったみたい。だいじょうぶ、まだまだ若く見えるわ。メルシーマドモアゼル。小鳥もちょっと窓の外でわらったみたい。


 まだ寒い日、彼は市場でスミレの鉢植えを見かけて、すぐヴィオレッタさんを思い出した。思い出したら買わなきゃいけないような、鉢植えの中の小さな花に、買って買ってとせがまれているような気分になって、買ってしまった。買ったはいいけど、忙しい身なので、世話できるかしらと少し心配になった。
 だって枯らしてしまったら、なんだかヴィオレッタさんに申し訳ない気がする。
 そこで彼はスミレの鉢植えにかわいい薄紫したレースのリボンをかけて、お隣のベルを鳴らすことにする。少し遠くてベルの音がして、とことこと歩く足音。ううむ、ほんとにとことこだなあと顎に手をやったところでドアが開いた。

「ボンジュー、ヴィオレッタさん。」
「フランシスさん!」
 どうやらヴィオレッタさんは料理の真っ最中だったみたい。真っ白なエプロン、そうしていい匂いがふうわり玄関まで漂ってきている。煮込み料理かしら、赤ワインの匂い。
「どうしたんです?」
「ああー、そうだった、そうだった!」
 女性の家に突然尋ねてきて、玄関でご飯の匂いをかいでいるなんてもってのほか。ちょっと慌てて、ごめんね、って笑うと、ヴィオレッタさん、おかしそうにわらった。
「これをね、」
 リボンの鉢植えをヴィオレッタさんの目の高さまで持ち上げてやると、そこに咲いている花と同じ色の目がかがやいた。
「見かけてつい買ってしまったんだけど、そういえば俺って植物の世話とかしたことないし、枯らしたらかわいそうだろ?よかったらもらってもらえない?」
「いいんですか?」
「もらってくれた方が、花も喜ぶと思うんだけど。」
 メルシーと目をきらきらさせて、囁くように呟いたヴィオレッタさんのその瞳の中に、スミレの花がうつっている。どういたしまして、と返すのが少し遅れて、なんだか口の中でもごもごと鳴っただけだった。
 うれしそうなヴィオレッタさんに、お礼、とディナーに招かれたので、遠慮なくご相伴に預かることにする。素直においしかったので、おいしい、と言ったらスミレの目でヴィオレッタさんがわらった。「お招きに預かり至極光栄、」みたいなことを帰り際に普段の癖で気障な仕草とあまい声とで言ってしまったら、目を丸くして「フランシスさん、おかしい。」とかわいらしく笑われてしまった。
 あれ、おかしいな。
 彼はドアをしめながら首を捻る。俺としたことが、まだヴィオレッタさんを口説いてなかったらしい。口説いていなかったというか、うん、だって、ほら、お隣さんだよ?

 べっぴんさんやーん!と言う誰かさんの声がこだまする。ああ知ってるっつのくそ!

「しまったー、しまった!」
 お隣さんて、ほら、素の自分に近いから、なかなか難しいのだ。悪友共が押しかけてきてのどんちゃんさわぎやら、朝の鼻歌やら、どっかの腐れ縁が酔っ払って大泣きしておしかけてきたりとか、後は会議に疲れてスーツでそのまま階段で寝こけてるのを発見されたりとか、あれとか、これとか、エトセトラ。あらぬところにばらを咲かせちゃったりしたのは、まさか見られていないと思うけれど、もし見られてたらどうしよう!
 考え出したらとても気を抜いていた自分を発見して、彼は口元を力なくひきつらせた。俺としたことが。
「しくったあああ…!」
 自分の部屋の、ドアを閉めて、頭かかえてみるけど始まらない。

 ああごめんね、ヴィオレッタさん、俺、普段はもう少しちゃんとしてて、かっこうよくて、女性にやさしくて、セクシーで、それでもってこう、もっとこうさあ!

 彼はそこまで頭かかえて、でも、と顔を上げる。フランシスさんおかしい、って笑った顔、楽しそうだった。スミレの目の中に、花があったな。思い出したらなんだか優しい気持ちになった。だからまあいいか、そういうことにする。

「おやすみヴィオレッタさん。」

 夜、窓越しに少しとなりを見たら、リボンの鉢植えがちゃんと彼女の窓辺の庭に、仲間入りしているのがチラリと見えた。


(100105)