いつもの通り夕飯をたかって帰ってゆく彼を、見送りにでたとき「あいしている」という旨を伝えたらそれきり来なくなった。ほぼ予想通りの反応なので特に嘆くことも慌てることも悲しむこともなく、月火水木金土、飛んで日曜日に私は彼の家のチャイムを鳴らす。
 遠くで三度ベルの音。それを聞きながら、噫夜逃げされなくてよかったと、私は考える。少しばかりビターなロマンチック映画の始まりはいつも雨だった。
 彼は私を見ない。
 まだ子供だからと言って。






 ベルの一度目は無視された。
 これもまあだいたいわかってはいたので事務的にもう一度ボタンを押す。遠くでブザーが鳴っているのが聞こえる。雨が降っている。先ほどから風に細かく砕けた雨の飛沫が、肩に髪に、さらさらと落ちてくる。黒い髪はママに似た。スミレの目はパパに。
 彼の車はガレージにあった。今日彼に予定がないのは、昔、父の秘書をしていた現・彼の上司からの伝で知っている。散歩に出ただろうか、それとも買い物に?いいや。私にはわかっている。まず間違いなく、彼は今部屋にいる。ずっと部屋にいる。
 反応がないのでもう一度。
 しばらく待って、それでも反応がないので、呼び鈴を三三七拍子で押してみる。少し楽しい。それでも返事がないので、では改めましてもう一度、と三三二、までいったところでドアが開いた。

「こんにちは、フランシス。」

 にっこり笑ってみる。彼は目の下に隈をこさえて、あのねぇ、と疲れたようにつぶやいた。
「居留守とはいい度胸ね、」
「人ん家の呼び鈴で遊ばないって俺教えなかったかな?」
「あら、私遊んでたわけじゃないもの。」
 ああ、…そう。
 彼はますますくたびれたようだ。がっくりうなだれた首筋が、どうにも情けなくって好ましいと、私は思った。シャツなぞよれよれで、いつもきれいに折り目がついたのを着ているのにと思うと、この恐ろしく年上の男がとてもかわいらしく思えた。髪もぐしゃぐしゃだ。青い目にかかって一房、はらりと落ちた。
「お邪魔してもいいかしら。」
「…だめ。」
 見上げた視線が合うことはない。
 雨が降っている。彼の目がはどこか遠くを見て、決して私を見まいとする。私は彼を見上げる。昔から変わらぬ、親愛と尊敬と、それから特別な親しみをこめて。私のフランシス。この思いは、決してうぬぼれなどではないでしょう。
 私が生まれたとき、彼はそれはそれは喜んだと聞きます。パパと抱き合って喜んで、二人一緒に階段から転げてそれでも笑ってたと聞きます。忙しい父と母を手伝って、彼自らの手で、私をここまで育て上げた。私のおてんばに付き合わされて、それはもう苦労したことでしょう。怒られたのは一度や二度ではなく、それでもなお、彼は優しく。大きな手のひらで私を守り、いつくしみ、導き、そだてた。真っ青な瞳で、いつもいつも、美しい素敵な花のようなお嬢さんになるんだよと、魔法をかけるようにして。
 それでいながら彼は、きっと誰よりも、私が大人になるのを、恐れたに違いない。時が過ぎて、おとなになり、私が彼を置いてゆくのを。
 しかしやはり、私はこうして大人になって、雨の日、彼の戸を叩く。
 
「ねえフランシス、」
 星の目が逸らされる。
「フランシス、ねぇ、私を見てちょうだい。」
 彼は首を振った。いやいやをする子供のような仕草だった。彼は泣いているのだ。雨の街は冷える。そんなシャツ一枚で、ねえフランシス、風邪をひいてしまうわ。
「…見てるよ。」
「いいえ。」
 いいえ、決して彼の眼はまだ私を見ない。
 なにを恐れることがあるだろう。彼にすれば私など、ただの小娘だのに。それでもこうして、彼が私を見ないのは、私がもはやずいぶん前から、"ただの"小娘ではないから。私は娘。この国の、美しいこの国の、あなたの、フランシスの私。
「フランシス、なぜ私を見ないの?」
「…見てるさ。」
「フランシス、なぜ気付かないふりをするの?」
「なににだいお譲ちゃん。」

 私は一度黙ると、フランシスの顔をまっすぐに見上げた。
「変わらないのね、フランシス。」
 無意識にそんな言葉が出て、彼が顔を歪める。今きっと一番、彼を傷つける言葉だ。私がまだ幼く、恋も愛もわからず、ただやわらかい毛布の中で夢を見ていたあの頃――彼が初めて私の枕辺で流した涙の意味もわからなかったあの頃、当時から彼の姿かたちはひとつもかわらない。若く、うつくしいままのあなた。父の髪も母の髪も、もうずいぶんと黄昏れたというのに。
 そおっと指先を、彼の頬に伸ばした。きれいに切りそろえて、磨かれた桜の色をした爪先。磨き方も手入れの仕方も、すべてみなあなたが教えた。

「泣いてるの、フランシス。」

「泣いてないよ、」
 反射のように彼は返事をして、うっかり、私の眼を見た。ギクリと彼の背中が強ばる。
「いいえ。あなたまだ気づかないの?あの時からずっと泣いているくせに。」
「あの時?」
「私がまだ小さかった頃。」
「いつのことかな?お兄さん忘れちゃっ「私、大人になったの」
 あなたのお望みの通りに。
 目をそらそうとした彼の頬に添えた手に力を込める。彼の眼はあきらめたように、私を見ている。その眼に映るのは、苦しそうな、泣き出しそうなくたびれた青い影。噫なぜ大人になったの。その眼が言う。なぜ大人になってしまったの、なぜ自分に向けられていた愛の種類や意味を読み取れるほどに、おとなになってしまったの。
「私もう大人よ。」
「…そう言ううちはまだまだ、」
 いい加減少し腹が立った。
 彼は知らないのだ。自らがどんなまなざしで私を見るのか。どんな優しい声色で私を呼ぶのか。
「私の目を見て言いなさい。」
 ついに彼は、私の眼を本当に見た。青い目。スミレの目。重なる。
 ねえこうして目と目を合わせたときに胸の真ん中ににじむ、この思いは同じではないの?青い目から涙が落ちた。かわいい人、ねえもうずっとこんなちぎれるような思いであなたは私を見てきたのかしら。

「フランシス、私だけのあなた、」
 すみれの目は魔法の目だよと、いつかあなたが言った。はフェルテの持つ最上級のものを受け継いだね、彼は事実、それで美しいローザを妻にしたのだから。
「私あなたをあいしてる。」
 私のかかとが地面を離れた。彼は決して拒みはしない。







 その日パリは朝からずっと涙に暮れるように雨が降っていたから、最近リウマチの激しい老いた掃除夫もすっかり参ってしまって、白い壁の家の軒先で雨宿りをしていた。隣で白い犬も困ったようにしっぽを垂れているので、彼は残った昼食を思わずやった。そうしてなりやまない雨に、ぼんやり往来の景色を見ていた。
 ―――その時、その時だよ。
 しばらく黙って飲んでいた男が突然話し出した。
 わたしは見たんだよ。
 と夢うつつのように掃除夫は酒屋で言う。
 わたしは見たよ。キャメルのレインコートを着た、黒い髪の、それは美しいお嬢さんだったよ。白い細い足に、細いかかとの靴を履いた、お姫様のような女性だった。石畳を下ってくるとき、光を纏っているように見えた。遠くからでも、スミレの瞳が宝石のようだったよ。彼女はわたしのすぐ真向かいの階段をあがって、ベルを押した。マンションから出てきた男も、それは美しかったよ。金の髪で、白いシャツを着て、少しバレエにそのまま出てきそうな感じだった。彼はたぶん泣いていたよ、青い目から涙が落ちてた。二人はしばらく、なにか話をして―――女の子の細い指先が、彼の頬を拭って、それから背伸びをすると、彼の瞼に口づけた。彼は少し呆けたような顔をして、それから彼女をだきしめてキスをした。ああそれだけの話。どこにでもある恋の一場面だ。わたしの若いころだって、そんなことがあったよ。けれどね。
 もう一杯、ジンを注ぎながら、もうすっかり鼻を赤くした男が言う。
「あれが魔法でないなら、わたしの見た夢か、ロマンチックな映画の撮影に違いないよ。」