髪を梳く手をふいに止めて、娘は鏡に写る自らを見た。
 黒い髪はゆるゆると波打って胸のあたりまで垂れている。細い手と首。白い顔。賢そうなすみれの目玉が、じっと鏡の中から自分を見つめている。形のいい眉。
 彼女は少し自らに向かってにこりと口端を持ち上げると、再び手にした櫛を動かし出した。わずかな鼻歌は、しかし気楽なシャンソンではなく、軽やかな賛美歌。
「鏡よ鏡、」
 幼い頃夢中になった物語のフレーズを、ふいになぞってみる。
 長い睫の下で、おかしげに目玉が揺れる。
 彼女は美しい。
「せかいでいちばん、」
 ―――なのはだぁれ。


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「ただいま。」
 まだ浅い春。マフラーを外しながら、は扉を閉める。おかえりと返したのは父親だけで、母親の方は出かけているらしかった。時計は間もなく10時を回る。ダイニングの椅子に座って、ゆったりと父親は雑誌を捲っていた。
「おかえり、。」
 微笑みながら、もう一度彼が言う。扉のすぐとなりにコートをかけながら、が「ただいま、パパ。今日は早いのね?」
「お前は遅いねぇ。ひょっとするとデートかな?お相手は?」
 茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる彼も、もうずいぶん年を取った。ご自慢の髭には、白いものが多くなった。目尻のしわばかり深くて、それを指摘されると、"笑いじわ"だからいいんだよと彼はなお笑う。政界も退いて、時折講演や物書きなどをしながら、彼はまだ余りある時間をのんびりと楽しんでいた。

「…今車を回してくるわ。」
 娘のその回答に、おや、と言う顔を彼はした。まだはダイニングの入り口に立ったままだ。めずらしい、と彼は思った。娘が最後にボーイフレンドを紹介してくれたのなんて、彼女がまだ大学に入り立ての頃じゃなかろうか。その彼女は、もう大学を卒業する。相手がいないはずがないと思うのだが、とんとしれなかったのだ。
「紹介してくれるのかい?」
 それに彼の娘は、そっと頷いた。下を見た時の瞼と額の形、それから鼻の筋とその顔の印影とが、妻に似ているなぁと彼は少しばかり感動する。妻も娘もまた美しい。彼の愛する女性たちだ。その目の色は自分譲りで、それが彼にはくすぐったいほど喜ばしい。
「ええ。…私たぶんあの人と結婚するの。」
 しかしその娘の発言に、ますます彼は目を丸くして、最近ますます美しくなった娘を見る。
「それはそれは…―そんないい人がいたなんて!いつからだい?」
「…正直そういう仲になったのはつい先日なの。」
 ニュアンスからつきあいは短くないのだと知れる。娘は少し肩をすくめてわらった。
「でも本気なんだね?」
「ええ。」
 娘の微笑む横顔に、若い娘のはにかむような喜びはなく、ただ凛と張りつめた、冬の朝に似た勇ましさがある。
 戦乙女の像のような、透き通った美しさ。
 こんな顔を娘はしただろうか。
「…会うのが楽しみだな。」
 それにが、少し不思議な笑い方をした。
「……パパもよく知っている人よ。」
「なんだって?」
 思いもかけない言葉だった。彼はオウム返しに、思わず聞き返した。

「よぉく、知っている人。」

 沈黙が落ちて、柱時計が10時を知らせる。鐘の音は、ふいに彼にひとつの啓示を与える。
 ―――彼だよ。彼、彼、彼だ。
 秒針はずっとせわしなく意味のないお喋りして、短針はずっと沈黙している。長針が、十二に来たときだけ、何事かぽつりと囁き、その囁きは予感を齎す。

「…………フランシス?」

 娘が微笑する。
 そのヴァルキリーの横顔、その意味を父親は理解する。
 フランシス。
 それは彼の、彼の、彼らの―――。
「だめだ。」
 言葉が口をついてでた。自分がなにを言ったか、一瞬考えてから、彼もう一度口を開く。
「…だめだ、彼は…だめだ。わかるだろう、お前はかしこい子だとパパは思っていたよ、。彼は優しい、そして美しく、強く、君を愛し守るだろう。だが彼はだれにたいしても優しく、美しいものを好み、その愛は移り気だ。…、」

 なんと言えばよいのかわからなかった。ただ無我夢中で、饒舌になる。フランシス。数十年来の友人だ。彼の部下であり、仕えるべきもの。この国そのものの、美しい男の形をした―――、
「人間は老いる。」
 人間ではないもの。

 娘はなお微笑し続けている。いつも陽気に夕飯をたかりに来る彼の友人。
 いつもの通りまた明日も来るよなんて笑って、千鳥足で帰ったのに、そう言えばここ数日とんと訪れない。妻が食材が余ると言って笑っていた。
 この一週間でなにかがあったのだ。それはおそらく、彼の娘が関係するのだろう。フランシスがを目に入れても痛くないほどかわいがっているのは知っている。しかしそれが、まさか、そんなことが?
 彼は混乱していた。
 そして、今日、そのフランシスが、やって来る。
 なにもかもがよくわからない。混乱している。娘とあの男が並んで立てば、それはもう美しく、誰もが見惚れるような幸せの形を成すだろう。しかしそれは、ほんの一時の夢。しかもそれは覚めることなく、やがて悪夢のように二人をくるしめるだろう。

「君は若く、そして勇敢で、美しい。しかし時は、君を老いさせる。」

 きっとは泣く。あの男も泣く。どちらも大切だと思う。
 言わんとするところはもちろん分かっている、と娘が微笑む。
「自然の摂理でしょう?」
「彼はそれから、」
「外れてはいないわ。ただずいぶん、ゆっくりゆっくりと変化するだけで。」
 私彼の幼いころをモデルにして描かれた絵画を見たわ。彼も成長するのよ。
 だから何も心配はいらないのだとは微笑む。馬鹿な、たとえそうだとしても、君とはペースというものが、まるで違う。それでもなお微笑し続ける娘の顔に、きっともう一生分泣いて、それから考え抜いたのだろうと、ふいに彼は思い当たった。
「だいじょうぶ、」
 だからだろうか。
「だって、パパ。私を誰だと思ってるの?ママとパパの娘で、」
 だからこんなに、透き通って美しい。

「彼が育てた女の子なのよ。」

 ああ、フランシス、あの男は自分でも知らず知らず、花嫁を育てていたのだ。こんなにも美しく勇敢で、優しい花の娘を。
 チャイムの音。ああ いつもは勝手に入ってくるくせに。馬鹿だなぁフランシス。お前本当に馬鹿だ。彼は少し目を覆ってから笑うと、立ち上がる。
「しあわせでなければだめだ、」
 その台詞の意味を判じかねて、が肩をこわばらせるのを、幼い子供にするように眺める。
「結婚おめでとう。」
 そう言って彼は、と同じすみれの目で微笑んだ。
「さて、花婿を迎えに行こうか。」
 でもやはり一度、フランシスは殴っておくべきだろう。
 立ち上がりながら、彼はずいぶん、自分が落ち着いて、いっそ楽しいような気分でいるのに気づいた。