ローラ。私のかわいいローラ。
 私は君に私の魂のこれからすべてを捧げよう。
 信じていないね――ローラ。
 たとえば君の魂が不安な時には、キャロライン、私は常に君と共にある。
 ローラ、君はこれから先もずっと、私に出会うだろう。



(a river)  

 祖父の日記がある。
 そもそも彼が亡くなったのは随分と昔で、しかしよく覚えている。とても優しかったことと、それからいつも座っていた揺り椅子と、乾いた手のひらのぬくもり、お話を読む低い声。緑の石のついた、蛇の指輪。紅茶のかおり。彼の膝の上からは、とてもあかるくばらの咲く庭が見えたこと。「アーサー、」と呼ぶ声のあたたかさ。

 その祖父の死後数年が経ってから、机の奥に、彼の日記を見つけた。
 机には鍵がかかっていて、開かなかった。だから随分と長いこと、その開かない引き出しは忘れられて、アーサーがたまに思い出してはなんとなく気にかけて、乾いた木の表面をなぞってみたりするくらい。
 しかしある時、まだ小さかった彼の弟、アルフレッドが、どこからか鍵を見つけ出して来て、あっさりと開けてしまったのだ。変なところで、弟の方は昔から器用だった。
 アルフレッドにすれば、探検のような、気持ちでいたのだろう。祖父が亡くなってから生まれた彼は、小さな頃、もういない祖父の気配が濃く残る屋敷を、探検するのを好んだ。そうしてどこかから偶然に見つけてきた鍵で、不思議な屋敷の開かない引き出しを、好奇心から開けただけだったのだ。しかし両親の、鍵をどこかにやってまで見せたくないものが入っているのだろう、という会話を思い出すと、アーサーにはどうにもその弟の行為がよくないものにも思えた。しかし興味があったのは彼も同じだ。止めることもできず、彼はおろおろするばかりで、引き出しが開いてからは、祖父の懐かしいかおりのする品々に涙を流すばかりだった。きれいなインク壺や、なにかの古めかしい鍵や、きれいな石。植物の標本。そういった"たからもの"に弟が夢中になる隣で、彼はその手記を見つけたのだ。
 両親は忙しく、アーサーは、幼い時分は祖父に育てられたようなものだった。どうしても内へ内へこもりがちな彼の視線を、外に向かってやさしく開いてくれたのも祖父だったように思う。祖父は、その目と同じ、深い緑色の手帳に、いつも古い書き物机の上で、なにかを書いていた。羽ペンとインク壺にあこがれて、悪戯しては怒られた。優しい目玉で、なにか書いていたのを思い出す。丸まった背中。
 気がつくとそれを手に取っていた。

 それからもう随分と経つ。
 祖父の書庫と書斎と庭とをアーサーが、アルフレッドが2階の部屋と屋根裏、物置を受け継いだ。キッチンと応接間は共有のスペースで、庭の世話は兄が受け持つ。
 何度も何度も読むうちに、覚えてしまった。
 手記はとりとめもなく続き、ときおり思い出したように日付が添えられる。詩のようだったり、ひとりごとだったり、手紙の草稿であったり、落書きであったり。意味の無いような言葉の羅列だったり、新聞のクロスワードだったりもする。それはなんだか、たわいもない、鼻歌に似ている。
 そうしてその中で、繰り返し繰り返されるフレーズは、たったひとつ。

 ――My dear Laura,Caroline.

 祖母の名前は、それではなかった。
 アルフレッドは、それをよくないことだと言うので、一度見せて、それきりだった。しかしアーサーには、その祖父のささやかで、ちいさな、それでいてたいせつそうに思える、その秘密の名前を、弟のように不徳とは思えない。きっと初恋の少女の名なのだ。擦り切れるほどに読んだ頁の端々から、そう思わせる言葉が覗いた。むしろ彼には、そんなささいな思い出を、いつまでも大事に取っていた祖父が、いじらしく、かわいらしいもののように感じられてならなかったのだ。穏やかに平野を流れる、春の河のような人。
 死の前日に、書かれた預言書のような言葉を、彼はもう覚えてしまっていた。

Laura. My dear Laura.
I will give you all the future of my soul.
it does not believe -- Laura.
For example, when your soul is uneasy, Caroline, I always be with you.
You will meet me all the time also in the future.


 そこまで低い声で朗読すると、彼は祖父の本をそっと閉じた。これからさきもずっと、と言うフレーズが、不思議で、どこか好きだった。深い緑の皮は、年月を経て擦り切れ、それだけ頁がめくられたことを示しているようだ。何度も何度も、読んだのだ。すっかりアーサー自身の手に、馴染んでしまった。
 祖父の揺らした安楽椅子は、今もまだ書斎にある。そこに腰掛けるたび、彼は、祖父がなにを思っていたのか、ぼんやりとその思考の足跡を辿ろうとする。庭から差し込む光は明るく、そこに少女がわらって駆けるのが、見えるように思う。

「まぁたそれかい?アーサー。」

 ふいに陽気な声が飛んだ。
 いつでも明るいその声は、時々彼を、どうしようもなく苛立たせる。書庫のほの暗い明かりに照らされたグリーンの瞳が、入り口のほうへゆっくりと動く。手にシェイクを持ち、音を立てて飲みながら、アルフレッドがそこに立っていた。その瞳はスカイブルー、空の色。
「汚い手で書庫のものに触るなよ、アル。」
 わかってるよ、と言いながら、ものめずらしそうにあちこち手を伸ばそうとするのでたまらない。
「ああもうお前オイルついてるじゃねえか!」
「しょうがないだろ、今まで機械いじってたんだから!」
「なら飯を食う前に手を洗え手を!いつも言ってるだろうが!」
「うるさいなあ!」
 顔を合わせると、これだ。
 書斎に増えた棚に、鉱石や古いオルゴールが並べられている。その中のひとつ、木彫りが美しく花を咲かせる枠組みの中で、ふたりの祖父がわらったようだった。