(a razor) |
祖父の屋敷に、彼は兄と住んでいる。 そもそもその祖父というのは、イギリスから移住してきた人らしく、その屋敷も、暮らし向きも、どれをとっても遠い島国の様式をそっくり真似ている。クラシックな、といえば聞こえがいいが、ようするに、古臭いのだ。大きなイギリス式の庭も、家の造りも、すべて彼の行ったことのない国のミニチュアだ。 母国では、それなりに知られた植物学者だったらしい祖父が、なぜ遥かに海を渡って、この大陸にやってきたのか、彼は知らないし、あまり興味はなかった。そもそも祖父が亡くなった後に生まれたアルフレッドには、祖父に関する記憶などあるはずもなく、なにかことあるごとに「じいさんは、じいさんは」と口にする兄が不思議で、少しわずらわしかったりもした。正直に言えば、「やさしくておだやか」で「とてもだいすき」なおじいさんとの思い出を持っていない彼には、両手に有り余るほどの彼との思い出を持っているだろう兄が、少しねたましくもあったのだ。 年の離れた兄であるアーサーが、大学を出て、就職を機に家を出て、祖父の家に移り住んだ。ちょうどハイスクールに上がった彼も、いまがチャンスとばかりにくっついて家を出たのだが、ちっとも思い描いたような生活にはならなかった。 アーサーというのは、スティングのヒットナンバーをそのまま形にしたような人で、祖父の影響で相当なイギリスかぶれなのだった。朝は紅茶、砂糖もミルクも入れない。トーストは片面だけ焼く。寝坊をあまりしない。 朝、アルフレッドが起きる頃にはとっくに起きていて、庭の水遣りと花の手入れも済ませて、紅茶を片手に新聞を読んでいる。若葉のような緑の目玉をして、新聞から少し顔を上げると「遅いぞ、アル。」と言う。午後からの講義だから別に昼まで寝ていたって構わないのに、と言うと、呆れた目で彼を見る。 二人暮らしだからって楽もなまけもさせない、と言うのが、アーサーの口癖のうちのひとつで、両親も「アーサーがいればアルも安心ね。」などと言う。 なにかと年長ぶるアーサーが彼には不満で、つまり、アルフレッドに言わせるならば、偶然、偶然――神のご意思とかいう偶然のために、アーサーの方が早く生まれただけで、そうして早く生まれたからやらなくてはいけない義務を、アーサーはただ生真面目に果たしているだけなのだそうだ。もしアルフレッドのほうが早く生まれていたら、同じように"弟"に言っただろう。いつまで寝てるつもりだ、と。しかしそれでも、アーサーとは違って、笑いながら、弟が素直に「ごめんなさぁい、」と肩を竦めて謝れるような、そんな陽気な調子で言ってやるのだ。だからえらそうに、いかにも年長者ぶって言われると、口をへの字に曲げてしまう。 そもそも似ていないね、とよく言われる。アーサーが月なら彼は太陽で、兄は森で、彼は空だ。あんまりアーサーときたらイギリスかぶれなので、影でこっそり、ミスター・イングランド、なんて呼ばれているのも知っている。それなら君は、ミスター・アメリカだな、という友人のジョークが、アルフレッドは少し気に入っていた。 二人暮らしを始めた頃から、あまり、昔のように兄に甘えることがなくなったように思う。 昔は、両親も共働きで、年の離れた兄が親代わりのようなものだった。いつも後ろにくっついて歩いて、アーサーもなにかと「アル、アルフィー、」と呼んではかわいがってくれたものだ。それなのに、今となってはあれはだめこれをやれそれはするななんで言うことが聞けないんだ昔のお前はかわいかったのに! これだもの。 最近は慣れてきて、無視する、聞いたふりをする、流す、と言った業を覚えた。最初の頃は、一度はものすごい大喧嘩をして、手も出て足もお互い出し合った結果、ものすごいことになった。 それからもなんかいか諍いは起こったが、今ではそれすらもあまりなく、会話も減ったような気がする。お互いに領域を決めて、それ以上踏み込まないようにしている。家族なのにそれってへんだな、と思いながら、もうあんな大喧嘩はこりごりだから、おたがい了承しているのだと、アルフレッドは思っている。 その彼も今は大学生で、機械工学を学んでいた。 NASAに入局するのが夢だ。自分の作った機械が、空を飛び、大気圏を超えて、宇宙へ飛び出していくだなんて、考えただけでわくわくする。エンジニアが無理なら、体力には自信がある、パイロットもいい。 アーサーは貿易会社に勤めている。いわゆる一流企業というやつだが、浮いた話もなく、家にいるときは書斎か書庫にこもっているか、庭の世話をしているか。老人のような生活だとアルフレッドには思われてならない。しょっちゅうあちこちから、古臭い家具や調度品、それから宝石なんかを集めてきて、書斎に飾っている。夜中にオルゴールの音が、書斎から漏れてきたりもする。中でもアーサーのお気に入りは、祖父の手帳だ。彼が思うに兄は、少し――いや、けっこうなロマンチストで、空想家なのだろう。 こんなだからもてないんだな、とアーサーのことをどこか他人事のように思いながら、アルフレッドは生活している。 学校に行き、アルバイトをして、友達と騒ぐ。家に帰ったり帰らなかったり、楽しい暮らしだ。最近ではアーサーも諦めて、よほどのことが無い限りなにも言わない。アルバイトも自分の好きな車をいじれるガソリンスタンドで、バイト代は全部貯めていた。貯金して、留学しようと、実は考えている。 アーサーの友人に、ホンダ・キクという日本人がいて、機械工学の進んでいる日本に、一度行ってみたいと話したら、大学に、学部は違うが紹介状を書いてもいいと言ってくれた。アーサーと同じで文学をまなんでいる人間だが、キクは話がわかるやつだと、彼は思っている。 Laura. My dear Laura. I will give you all the future of my soul. it does not believe -- Laura. For example, when your soul is uneasy, Caroline, I always be with you. You will meet me all the time also in the future. 祖父の手記の言葉である。 アーサーがあんまりにもそれが好きで、自分では無意識なんだろうけれど、しょっちゅう暗誦したり鼻歌に交えていたりするので、この一説だけ覚えてしまった。兄のロマンチックなところも、祖父譲りらしい。たましい、だなんて、この科学の時代にこっけいなようにアルフレッドには聞こえる。それにしてもどうして誰も気づかないのだろう。兄はやはり、夢見がちすぎる。これは預言でも、詩でも、歌でも、祈りでもない。これは手紙の草稿だ。きっと祖父は、初恋の君だかなんだか知らないけれど、その相手に、死の前に手紙を書こうとしただけなのだ。 それをロマンチックで、すてきなことだと、人は言うのだろうか? 死んだらどこへ行くのか、死んだらどうなるのか。 この詩だかなんだかを聞くかぎり、祖父は少し東洋かぶれの気もあるらしい。魂は共にある。再び君は出会う。時々アルフレッドは、自分が刃のような鋭い心持ちになることがあるのを自覚している。 ――骨になるだけだよ。 死後について。その使い古された問いかけに対して、前に一度、キクにそう言ったことが会った。彼は目を丸くして、やんわりと微笑むと「あなたがそんなことを言うなんて意外です、」と言った後で、 「…でもなんだか、ぴったりな気もしますね。」 おかしそうに言ったのだった。 |