(a hunger)  

 本田菊という東洋人と、アーサーが知り合ったのは、彼がまだ在学中のことである。
 アーサーは当時、少しだけ雨月物語というのに興味があって、菊は海外の人間が自国の文学をどのように読むのかに興味を持っていた。お互い飢えたように知識を欲していたし、友人に、語り合える人間に不足してもいた。慣れない異国で、日本人の彼はコミュニケーションの仕方に悩んでいたし、気難しいと思われがちなアーサーもまた、いささか孤独であった。
 お互い人見知りする気性なものだから、話しかけるのに若干苦労した。
 しかし一度話してしまうと不思議と気があって、何度か家に招く内にさらに親しくなった。祖父の古いコレクションの中に、日本の絵ハガキや土産物があったのも影響していたかもしれない。

 菊はアーサーの空想じみた話を、わらうこともなく素直に最後まで聞いてくれた。それは彼にはなにより喜ばしいことで、思わず何度も、退屈でないか嫌ではないかと尋ねて笑われたりもした。逆にせがむと、ぽつり、ぽつり、母国の季節の話や風物のことを語ってくれる。そうやって言葉を紡ぐ菊の白い横顔に、憧れのようなものを感じたこともある。菊は人の話を聞くのがうまい。そして本当は、それ以上に話すことがうまいのだ。
 そうやってその低い声と穏やかな音を使って、自らの頭に浮かぶ故国の情景を、やさしい言葉にできることを、アーサーはうらやましく思う。
 アーサーの語るべき、語りたいと願う国は、この大きな国ではなかった。それは遥か海の向こうにあり、そして彼自身、その地に暮らしたどころか、その地を踏んだことすらない。古い友人ですら、彼は幼少期をイギリスで過ごしたものだとばかり思っている輩もいるので、その事実をあまり言ったことはない。祖父の暮らし向きをなぞることは、アメリカという広い世界から離れることにほかならなかった。そうして暮らしてきたアーサーには、ときおりこの国に自分の足場がないように感じられた。彼の踏むべき地は、遥か彼方。飛行機ならばあっと言う間なのに、日々のあわただしさに追われて、結局この年になっても踏むことが叶っていない。
 本当は、踏みたくないのかもしれない。
 最近になって、アーサーはふとそう思いもする。祖父の美しい国は、自分を受け入れてくれるだろうか。アメリカ人のイギリスかぶれなんてめずらしい、と、馬鹿にされたりはしないだろうか。

 そう言う思いが、彼の渡航を妨げているのかもしれない。あとはもうひとつ、図体は立派であってもいつまで経っても子供のままの、弟のこと。そのふたつが、彼をこの大国に留まらせ、そうしてまだ見ぬ国香りが満ちた祖父の屋敷に、アーサーをひきつけている。


 一度菊に、祖父の手記を見せたことがあった。
「すてきですね、」
 と彼はしみじみと文字を黒い夜空の目で追い、指で撫ぜた。
「よほどたいせつな方だったのですねえ。この、ローラさんという方。」
「…らしいな。けっきょく直接聞いたことはないが。」
 ありがとうございました、と返された手帳を、アーサーはそっと引き出しに仕舞う。
「不思議な感じの文ですね。私の魂のこれから…これから先ずっと出会う…―――東洋的な印象も受けます。」
「博学な人だったからな。」
「アーサーさんにそっくりですねぇ。」

 よせよ、と返す言葉が掠れた。あまり彼は、ほめられることに慣れていない。
 それから少し文学論をぶって、それから酒が入ってお開きになった。酒の席になると菊がそそくさと帰るのは、自分の酒癖が若干よろしくないからだと言うことは、彼はおぼろげながら自覚している。
 その菊も、アーサーも、もうとっくのとうに社会人で、会う頻度も少なくなったが、それでも交友は続いていた。自国に戻って、目標にしていた出版社へ就職したはずの菊だったが、留学経験を買われてさっそくこちらに飛ばされてきたというわけだ。そのときばかりは、初めて菊に、アーサーが"つきあって"飲んだ。


 その菊から、電話があった。
『もうすもうす、ああ、アーサーさんですか?』
「菊?」
 菊から電話があるのは珍しい。付き合いが悪いわけでは決してないのだが、彼のほうから人を誘うことは、めったないのだ。
『いきなりで申し訳ないのですが、ひとつ確認したいことがありまして。』
 よろしいですか、と尋ねる受話器の向こうの声が、少し興奮しているような早口な様子で、なにかあったのだろうか、とアーサーは首を傾げる。菊のテンションが、人前で上がっていること自体結構珍しい。

『アーサーさんのお名前は、お祖父様からいただいたのでしたよね?』
「ん?…あ、ああ。」
 予想していなかった質問に、答えが遅れた。
 一度か二度話しただけの、祖父の話が異国の友人の口からでるとは思わなかったのだ。ますます首を傾げるアーサーに、電話越しの友人の意図はまるで見えない。
『それで、ファミリーネームのことなのですが…お尋ねしにくいのですけれど、弟さんとは違いますよね…?』
「ああ、俺は父親の姓で、あいつは母親の姓をもらってる。」
『…あー、なるほど。そういうこともあるんですねぇ。』
「めずらしくはないな。…で?」

『ああそうです、それで、お祖父様のファミリー・ネームは、いったいなんとおっしゃるのでしょう。』

 やはりよく質問の意味がつかめなかった。
「ジョーンズだ。」
 弟と同じほうの姓を答える。
『では…ではお祖父様のお名前はアーサー・ジョーンズとおっしゃるんですね!?』
「あ、ああ。」
『これは大変!おっとアーサーさん、それでは一旦失礼しますね!』
 後でお伺いします、と慌しく電話が切れた。

「なんだったんだ…?」
 手の中に残った受話器を見つめて、朝の光が差し込むキッチン、しばらく彼はぽかんと立ち尽くしたまま、首を傾げることになる。